5月の最終日曜日というと、競馬ファンにとっては「競馬の祭典」日本ダービーの開催日である。ところが、日本ダービーが6月に開催された年も結構あって、近い順に見ていくと、2014年(ワンアンドオンリー)、2008年(ディープスカイ)、2003年(ネオユニヴァース)となる。1996年(フサイチコンコルド)から1999年(アドマイヤベガ)までは、4年連続6月の第一日曜日に行われていた。
ここまで書いて、アドマイヤベガで日本ダービーを制し、史上初のダービー連覇を果たした武豊騎手に「週刊プレイボーイ」でインタビューしたことを思い出した。その一部を紹介する。
──今年のダービーは6月6日で第66回。レース前、6という数字が気になったりは?
「それはないです。でも、知ってます? ぼくの騎手コード番号、666なんですよ」
──なんですか、そのコード番号って?
「デビューするときにつけられるんですよ。で、アドマイヤベガの最終追い切りの日、1本目に坂路を軽く流したときのタイムがね……」
──まさか。
「そのまさかの66秒6だったんです。あまりにも6が多いんで『お前は6着だ』と言われましたけど(笑)」
もうひとつ加えると、日本ダービーの前走、皐月賞も6着だった。これでよくぞ6着にならなかったものだと思うほど、武騎手とアドマイヤベガは「6」に絡みつかれていた。
実は、ここまでが前置きで(だからオジサンの話は長くなるのだが)、今年から世界最大級の馬の祭「相馬野馬追」の開催が、猛暑対策で2カ月早められて5月の最終土曜日から月曜日までの開催となり、日本ダービーとモロに重なるようになってしまったのだ。
改暦後の1874(明治7)年以降の150年で、相馬野馬追が新暦5月に開催されるのは初めてのことだ。
1874年より前は、旧暦5月中の申(なかのさる)で、新暦の6月下旬から7月上旬に開催されていた。それが、暦の転換や、梅雨時を避けるため、さらに出場者や観客数を増やすために新暦7月最後の土曜日から月曜日となっていた。
旧相馬藩の国歌とも言える「相馬流山」の歌詞はこうなっている。
相馬流れ山 習いたかござれ
五月中の申 お野馬追
これが実は全11番のうちの1番で、騎馬武者が独特の節をつけ、1分半以上かけて歌い上げる。
つまり、元々相馬野馬追は旧暦5月に行われており、それが新暦の5月になった、ということだ。
当初は、出場者や観客の減少が懸念されたが、出場騎馬は昨年より20騎ほど多い約390騎で、日曜日の本祭に雲雀ヶ原祭場地を訪れた観客は昨年より5000人ほど多い約3万3000人と、どちらも増加した。
私は金曜日に現地入りし、南相馬市小高区の同慶寺で16時から行われた歴代相馬藩候墓前祭を取材し、翌日は、朝から小高郷の出陣式と宵乗り行列、午後は雲雀ヶ原祭場地で宵乗り競馬などを見てきた。陽射しは強かったが、7月末に行われていたころと比べると非常に過ごしやすく、快適に観戦できた。
馬にとっても人にとっても過ごしやすいこの時期に、日本ダービーと野馬追というビッグイベントが重なってしまうのはしょうがないな、と思った。
1泊2日の短い日程だったが、騎馬武者たちと、彼らを背に出陣した元競走馬たちをフォトリポートとして紹介したい。なお、みな小高郷の騎馬武者で、カッコ内が騎乗馬である。
出陣式を終え、妙見橋を渡る御使番の本田康賢さん(左、エノラブエナ)と螺役の今村一史さん(マドリードシチー)
小高区の宵乗り行列。左が組頭の本田賢一郎さん(イーストフォンテン)、右が中頭の只野晃章さん(サウザンビースト)
14年ぶりに勘定奉行をつとめた杉秀輝さん(トーセンブレイヴ)
侍大将の今村忠一さんは、昨年と同じくユウガオで出陣
軍者の蒔田保夫さんは、プロフィール不明のサラブレッドに騎乗
副軍師の本田博信さん(ウォームブラッドのダンディー)と、長女で御使番の本田賢美さん(ニホンノチカラ)
杉さんのトーセンブレイヴを借りて宵乗り競馬に出場した只野晃章さんは惜しくも2着 (内)
本田賢一郎さん、康賢さん、賢美さんはきょうだいで、父が本田博信さん。今村忠一さんと一史さんは親子である。なお、相馬野馬追に出られる女性は20歳未満という決まりがあるため、本田賢美さんは今年が最後の出陣となる。本田さん一家と今村さん親子が騎乗した馬はすべて本田さんが繋養している。
只野晃章さんが杉秀輝さんの騎馬で宵乗り競馬に出たのは、杉さんのつとめる勘定奉行が、競馬や新規争奪戦などには出られない役職であるためだ。
私は土曜日の夜に帰京し、日曜日は日本ダービーを取材したため、日曜日の甲冑競馬や神旗争奪戦、月曜日の野馬懸を見ることはできなかった。それでも、金曜日と土曜日はともに、好天でも酷暑ではないという素晴らしい「野馬追日和」で、気持ちよく楽しむことができた。
日本ダービーが6月開催になるまでは、このパターンで観戦するような気がする。