羽田から千歳へと向かう機内でこの稿を書いている。まず機内誌で浅田次郎さんの連載を読み、イラストの間違い探しをしてからパソコンの電源を入れるという、いつもの過ごし方である。
乗っている時間は1時間半ほどなので、機内でこれを書き終えたためしがない。どうでもいいと思われるかもしれないが、この場合の「ためし」は先例という意味なので、「試し」ではなく、ひらがなにするのが普通である。
さて、体温越えの暑さがニュースになっているのに、今週末から秋競馬が開幕する。
特に関東在住のファンは、秋競馬は京成杯オータムハンデから始まる、というイメージを持っているだろう。
私が競馬を始めた1980年代の後半は京王杯オータムハンデキャップというレース名だったので、今でも京成杯オータムハンデという響きに違和感を覚えてしまう。が、中山競馬場の近くを走っているのは京王線ではなく京成本線なので、現在のレース名のほうが自然なのだろう。
今はこれを札幌のホテルで書いている。私が競馬を始めたころの京王杯AHはダイナアクトレスやホクトヘリオス、マティリアルなど印象深い勝ち馬が多かった。なので、それらについて書くつもりだったのだが、「メイショウ」の冠で知られる松本好雄オーナーの訃報に、しばらくの間、呆然としてしまった。
亡くなったのが8月29日。その6日前に、個人馬主として史上初の通算2000勝の偉業をなし遂げたばかりだった。享年87歳。
私が松本オーナーに初めてご挨拶したのは、2008年10月5日、ロンシャン競馬場のパドックだった。メイショウサムソンが凱旋門賞に出走したときである。
たまたま近くにほかの人がいなかったので、本当にご挨拶だけのつもりで名乗ったら、松本オーナーはさっと内ポケットからカードケースを取り出し、名刺を差し出した。私は恐縮してしまい、名刺を交換してから、「応援しています」という、気の利かないことしか言うことができなかった。
私は気づかなかったのだが、その後、パドックに現れた武豊騎手を見た松本オーナーは涙を流したという。あれほどの大馬主でも、自身の勝負服が世界最高峰の舞台に上がったことで、感極まったのだろう。
凱旋門賞の重みを示すと同時に、松本オーナーの強い思いが伝わるシーンである。
このときメイショウサムソンは10着に敗れた。言ってもせんないタラレバだが、もし、前年の秋に凱旋門賞に出走できていれば、間違いなくもっといい結果になっていたはずだ。あまり離して勝つことのないこの馬が、2馬身半差で天皇賞(秋)を勝ったタイミングである。父オペラハウス、母の父ダンシングブレーヴという欧州で結果を出した重厚な血統の馬が究極の瞬発力も発揮できる状態になっていた。遠征を取りやめる理由となった馬インフルエンザが恨めしい。
先週のこの稿で「おめでとうございます」と言ったばかりなのに、もうお別れを告げなければならないのは悲しい。
先年亡くなった作家の伊集院静さんとたまたま同じ店に居合わせ、伊集院さんが帰るとき勘定をしようとしたら、松本オーナーが支払い済みだったことがあったという。それは伊集院さんがいろいろな人に対してよくやっていたことで、逆に、伊集院さんの食事代や飲み代を払った人を、私はほかに知らない。それに関して、伊集院さんも「私にそんなことをするのはあの人くらいだ」といったように書いていた。
偉大な馬主だった。日高の生産者にとって神様のような人だった。
座右の銘は「人がいて、馬がいて、そしてまた人がいる」。
口の悪い人が多い競馬サークルで、松本オーナーの悪口は一度も聞いたことがない。
松本オーナー、安らかにお眠りください。
作家は死んでから価値が定まる、とよく言われる。確かに、生誕何十年より、没後何十年のほうが大きく取り上げられ、作品を見直す機会になる。
馬主も似たところがあるのではないか。所有馬が作家にとっての作品で、死後、増えることはないが、作品に重版がかかったり映像化されたりするのと同じように、所有馬が大きなレースを勝ったり、産駒が走ったりする。
私は、いつ死んでもいい、と言えるほどの仕事をまだしていない。
松本オーナーの訃報に接して、あらためてそう思った。
さあ、もっと頑張ろう。