温故知新、今をより深くつかむには、その事柄のそもそもを知ることもたまにはいい。
四半世紀を超えたジャパンCの、その創成期の頃の思い出をひもとくと、当時の日本の競馬事情が見えてくる。
国際招待競走のプランが持ち上がったのが、第1回のジャパンCが行われた昭和56年の10年以上も前のこと。ところが、機熟さずの判断と活馬の輸入自由化を控えていたことも重なり、中止。その後顕著になったのが、国際騎手招待競走の実施と、レースの距離別体系の手直しだった。国際化という舞台を想定した試みを地道にやっていたのだ。
以前からずっと右肩上がりの成長を遂げていた中央競馬を、もっとメジャーな存在にするには、世界という視点から捉えることができなければと、再び国際招待競走実施の気運が上がり、創設の2年前から具体化。実際にJRAの職員が諸外国に派遣されて勧誘が始まった。
その頃の各国の日本の競馬に対する認識は低く、馬券がよく売れている国という程度だったそうだ。そこで、米国から競馬ジャーナリストを招いたり、細部の要項をつめて諸外国に呼びかけたりと計画を実行に移すことを始め、少しずつ感触をつかんでいった。
ところが一方で、日本の馬が大敗してイメージを悪くすることはないか、果たして何頭の馬が招待に応じて来日してくれるか不安だという思いが強くなり、レース名は、国際招待競走ではなく別の名前をと、このジャパンCになったということだ。
確かに、第1回、第2回と日本馬の惨敗は目を覆うばかりだったが、競馬のもつ魅力は来日した人馬から十分に伝えられ、東京競馬場の熱気は、年を追う毎に高まっていた。そして日本馬に勇気を与えた第3回の2着馬キョウエイプロミスの激走ぶりは、胸を熱くさせた。故障をおしてのゴール前の死闘、競馬に激走という言葉が使われたのは初めてだった。