競馬に「未練」を見出すことがよくあるが、そんなとき、ふと頭に浮かぶヒット曲がある。「五番街のマリーへ」だ。五番街に行ったなら、マリーという娘がどうしているか見てきてほしいと頼み、もしいないときには、誰かに近況をきいてくれまいか。ずっと以前にマリーはとは一緒に暮らしていたんだが、悲しい思いをさせ別れてしまったんだ。気がかりで、どうしても様子が知りたい、と、こんな歌詞だったが、こんな未練たらたらで演歌そのものの世界が、メロディーも歌い方も演奏もしゃれたものに仕上がっていた。
日常生活で、この「未練」にあたる感情は実に様々なケースに登場するが、年令、歳月を重ねていくうち、だんだんつのっていくもののようだ。
競馬の場合も「未練」なくして成り立たない。レース毎に生じる感情のほとんどが「未練」の連続で、こんな日の気分たるや救いようがない。この思いを如何にして断ち切るかが、もとめる競馬道なのだが。
しかし、本来あってほしい競馬の「未練」は別のところにある。人によって様々であっていいのだが、その「未練」とは、あの時のあの馬はどうしているだろうかといった類だ。これも「未練」だと思う。
こうした感情は、明らかに心の問題なのだが、それも感動する心があるかどうかで、あるシーンに心が動かされ、そこに登場していた馬がしっかり記憶されて、それが良き思い出になっていく。その良き思い出が、ふとなにかの折りに「未練」を呼び起こす。
「未練」は、ある時に語ってみたくさせる。この語るものが多ければ多いほど、心豊かになり、自分の競馬人生は楽しく広がる。
そして、その中に登場する名馬たちが目の前に甦るときの、その「未練」は新たな未練へと転化する。シンボリクリスエス、アグネスデジタル、ジャングルポケット、彼等の再登場には、大いなる意味があるのだ。