藤沢和雄調教師(70)=美浦=が定年のため、27日の競馬を最後に引退する。多くの名馬を送り出しただけではなく、集団調教、馬なり中心の調整法、馬優先のローテーションなど、競馬界に新たなスタンダードを導入してきた。30年以上に及ぶ調教師人生を振り返り、区切りの時を迎える心境を語った。
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-いよいよ引退が迫ってきた。
「実感は湧いていますよ。ただ、最後まで競馬はあるので、今まで通り、馬のことを考えてやっています」
-調教師人生を振り返って。
「本当に早かったです。定年まであと10年、あと5年と言われながらも、おかげさまで忙しく過ごさせてもらいました。ありがたいことに最後まで期待されている有力な馬を管理させてもらったので、感傷に浸る暇はなかったです。常にいい緊張感を持ってやらせてもらいました」
-多くの馬を世に送り出してきた。
「それぞれに思い出があり、素晴らしい馬ばかり。しかし、大成させられなかった馬が何頭もいました。今でも後悔はありますし、思い出すこともあります。うまくいったことよりも、失敗したなと思うことの方が多かったです」
-思い出のレースは。
「89年
青葉賞で
ロンドンボーイ(2着)がダービーの権利を獲りました。これでダービーに行ける-。その瞬間、すごくうれしかったことは今でも思い出します。あと、ダービーで言うなら
シンボリクリスエス。
青葉賞を勝たせてもらったけど、馬が引き揚げてきた時、騎乗した武(豊)君に“先生、この馬、秋には良くなりますよ”と言われてしまってね。私としてはダービーを勝つつもりだったから、何で秋なんだよと思ったけど、結果は武君騎乗の
タニノギムレットにやられてしまった。その時、ダービーは大変なレースだなと思ったし、今でも思ってます。それだけに、
レイデオロで勝った時(17年)は本当にうれしかったです」
-つらかったことは。
「期待にこたえられず、寝込んだ月曜日は多かったですね。ただ新聞、雑誌、テレビ、ラジオですごく応援してもらって、気が抜けないというか、それが張り合いになりました。頑張れた要因の一つだと思います」
-自分の成績を評価するなら。
「長い間、馬主さんには
バックアップしてもらいました。それでなければ、こんなには勝てなかった。その時代、時代で、いい馬主さんに応援してもらったおかげだと思っています。わがままばかり言ったけど、寛大な馬主さんが多く、とても感謝しています」
-スタッフには。
「自分たちができることを懸命にやってくれました。私が運動やカイバをやるわけではないし、点検をするわけでもない。スタッフがそれぞれのポジションでやってくれたおかげ。自分の力ではないということは、よく分かっています。本当に感謝しています」
-今後について。
「(競馬界は)長い間、世話になった社会。何かの足しや手助けになることがあるようなら、お手伝いはしたいですね。恩返しはしなければならないと思っています」
-やり残したことは。
「たくさんあってきりがないです。次に調教師になった時は、もう少しみんなの期待のこたえられるような成績になると思いますよ(笑)」
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藤沢和雄(ふじさわ・かずお) 1951年9月22日生まれ、北海道出身、70歳。菊池一雄厩舎、野平祐二厩舎での調教助手を経て、87年に調教師免許を取得し、88年3月に厩舎を開業。
シンコウラブリイ、
バブルガムフェローをはじめ、数多くの名馬を輩出した。JRA通算1568勝、G1・34勝を含む重賞126勝(数字は21日現在)。また、
タイキシャトルで98年ジャックルロワ賞・仏G1を制した。
提供:デイリースポーツ