「中山1レースは3歳の未勝利戦です」。ラジオから聞こえたさわやかな女性の声に、驚いたリスナーもいたことだろう。声の主はラジオNIKKEIの藤原菜々花アナウンサー。
JRAの公式実況を長年担当する同局において、女性が競馬実況をするのは初めてのことだ。そんな彼女の“メイクデビュー”は本番3日前に伝えられ、社内でも4人しか知らない
トップシークレットだった。なぜ、突然のお披露目になったのか。上長の中野雷太アナウンサーとともに、藤原アナに初実況の舞台裏を伺った。
4年目にして迎えた晴れ舞台だった。藤原アナは1月8日の中山1、2レースで、ラジオ実況デビュー。当日、となりで様子を見ていた中野アナは「僕のデビュー戦より、朝の雰囲気からしても落ち着いていましたね」と口にしたが、本人は頭が真っ白の状態だった。「本番まで残り10分ほどになって、一気に緊張してきました。口が勝手に動いているような感じで、気づいたら終わっていました。無事に終わってよかったです」と振り返る。何事なく終わった初陣だったが、そこまでの過程は決して平坦なものではなかった。
学生のころは競馬との接点がほぼなく、ラジオNIKKEIを志望した理由もラジオアナウンサーに憧れたから。デビューまでの道のりは、競馬場のビギナーズセミナーに参加して、「競馬」に触れるところから始まった。入社後も用語を覚えるところから。競馬実況も当然のことながら未知の世界。「筋肉が腕に無いので、最初は双眼鏡を持ち続けることも大変でした」「馬がすごく速くて、目で追い続けることも難しかった」と当時を思い返す。
実況練習の中で一番大変だったのは、馬名を覚えることだった。「勝負服を見て馬名を出すのは『Aのものを見て、Bと答える』ことなので、思考回路がまったく違うんですね。ぜんぜん馬名が出てこなくて、考えているうちにレースが終わってしまうんです」。中野アナもうなずき「そこはもう練習するしか無いですね」とひと言。そのうえで「馬名の裏にオーナーがいて、関わる人たちがいて、お客さんがいる。そこが一番大切」と重要性を強調する。
実況はひたすらやることが上達への道で、準備をして、現場でレースを見て、とにかくしゃべることが必須。最初は双眼鏡を持つことさえままならなかったが、時間をかけて徐々に成長していった。「最初は全然できなかったけど、彼女が練習している姿を見ていたらだんだんと」。中野アナも努力を見守り続けた。
今年初出社となった1月5日、中野アナと先輩アナから別室に呼ばれ、3日後のデビューを告げられた。「すごくびっくりしました」。驚きもあったが、何より喜びが勝った。「お正月休みの間にもっと練習しておけばよかったなと思ったんですけど(笑)。でも
ゴーサインをいただけたことが本当に嬉しくて、絶対に頑張りたいと思いました」。
ぎりぎりまで伝えなかったのは、極力プレッシャーをかけないため。しかも、このデビュー戦を知っていたのは社内で限られた人だけだった。
「社内で知っていたのは4人しかいませんでした。宣伝しちゃったらプレッシャーがかかるでしょうし、当日に体調を崩すこともあるでしょう。だから
シークレットで。競馬場のスタッフにさえ、当日の朝に打合せが終わってから実は……と伝えました」。中野アナの気遣いから生まれた“突然のデビュー”だった。
長い歴史を持つラジオNIKKEIにおいても、女性が競馬実況をするのは初めて。当然、社内外から大きな反響があった。だが、それも「頑張ってください」「よかったよ」など前向きなものがほとんど。SNSでも「おめでとう」「次を楽しみにしています」と温かいコメントがあふれた。当事者にとっても、驚くほど良い反応ばかりだった。
中野アナも「本人も不安だったでしょうね。でも受け入れられると思っていました。それだけのことを彼女はちゃんとやってきていますから。今後も自信を持ってやればいい」と改めて背中を押す。藤原アナは強くうなずいた。
実はまだ、彼女の声を競馬場で聞くことはできない。いまは中山、東京の前半レースでラジオ実況を重ね、経験を積んでいる最中だ。「いまの大きな目標は、場内実況デビューです」。近い将来訪れるであろう“第二のデビュー”を心待ちにしたい。
◆中野 雷太(なかの らいた)
97年に日本短波放送(現・日経ラジオ社)へ入社。これまで数々のGI競走で実況を担当しているほか、
JRA賞の司会を務めるなど、活躍は多岐に渡る。学生時代から競馬に興味を持ち、想い出の馬は
ヒシアマゾン。現在の主な担当番組は『
中央競馬実況中継』『うまきんIII』『日経電子版NEWS』など。
◆藤原 菜々花(ふじわら ななか)
20年に日経ラジオ社へ入社。趣味はフィギュアスケート観戦で、自身が企画した番組『こだわり
セットリスト・特別編〜羽生結弦選手特集』は世界中で話題となった。今年1月8日に競馬実況デビュー。日曜18:20〜放送中のトーク番組『ななかもしか発見伝!』では、自身が
パーソナリティを務めている。