競馬における“ド派手
ガッツポーズ選手権”があったならば、トップ5に入るであろう。ゴール後、
マイネルホウオウの背中で
柴田大知騎手は何かを叫び、右腕を力強く振りおろした。さらに何か声を上げながら2度、右腕を天に突き上げた。
お立ち台で男泣きした。勝負服の袖で何度拭っても涙があふれてきた。「負けたくない一心で…。G1を勝つ日が来るなんて夢のようで…」。観客は全力で拍手を贈った。泣いているファンもいた。
陳腐な言い方になるのがもどかしいが、どん底からはい上がった男にしか流せない涙だった。同期に
福永祐一(現調教師)、
和田竜二らがいる「花の12期生」。弟・未崎との
JRA初の双子騎手であることも話題となった。2年目には
エアガッツでラジオたんぱ賞を制し、重賞初制覇。順調な騎手人生を歩んでいた。
だが、所属厩舎を出てフリーになったことで暗雲が立ちこめる。落馬負傷で長期の離脱も余儀なくされ、さらには有望な新人が次々と入ってきた。気がつけば、レースにおいて柴田大の座る椅子はなくなっていた。06、07年は屈辱の0勝に終わった。
「家族がいるんだろ?助手に転向した方が生活は安定するぞ」。周囲の薦めに、その道もあるな、と思った時もある。だが、憧れて入った騎手の道だ。最後にひとつ、モガいてみようと柴田大は思った。
まずは、これまで縁のなかった厩舎を訪問した。調教のお手伝いをさせてください、そう言って回った。成績上位の騎手がいない土日、トレセンで調教にまたがった。つらい気持ち、恥ずかしい気持ちを懸命に押し殺した。
騎手にとって貴重な休日であるはずの月曜にも懸命に動いた。1円でも安い格安航空券を探し、北海道へ飛んだ。レンタカーを借りて馬産地へ。顔を売り、調教を手伝った。「正直、手土産を買うことすら苦しかったんです」。財布の中身は常に寂しかった。
努力を見てくれる人がいた。08年8月の北陸S。ハンデ49キロ、
ダイイチミラクルの鞍上を探していた
菊川正達師に聞かれた。「49キロ、乗れるか?」「もちろんです」。13頭立ての8番人気。伏兵だったが懸命に2着をつかんだ。「大知はまだやれる」。わずかながら追い風が吹いてきた。
ダイイチミラクルはミル
ファームの所有馬。ここからミル
ファームの馬に多く乗るようになった。ミル
ファーム創業者の清水敏氏は脱サラしてビッグレッド
ファームに身を投じ、そこから独立した異色の経歴の持ち主。柴田大の奮闘に共感した。ほどなくしてビッグレッド
ファームの岡田繁幸氏を紹介され、柴田大は“マイネル軍団”の馬に乗るようになった。
11年には
マイネルネオスで
中山グランドジャンプを制覇。お立ち台では「騎手をやめなくてよかった」と涙を流した。12年には
コスモオオゾラで
弥生賞制覇。そして…ついに翌年、
マイネルホウオウで平地G1初制覇。くしくも、これが柴田大の通算200勝目だった。
「僕の力じゃない。ホウオウはデビュー前から凄い乗り味だった。ホウオウが課題の折り合いを頑張って覚えたからです」。手柄は馬に譲った柴田大。だが、最愛の家族に囲まれると、思わず漏らした。「G1を勝つって、本当に気持ちいいですね」
スポニチ