「ウマ娘」の人気キャラでもある
ツインターボ。いまだに
ツインターボが高い人気を誇るのは、この怪物コンテンツの
パワーによるものだが、自身の傑出した個性によるところも大きい。ハマった時は、まさにターボ級のエンジンでゴールまで駆け抜けた。
ツインターボを伝説のサラブレッドへと押し上げた一戦は、この93年
七夕賞だ。
同型の多いレースだった。
マイネルヨースは過去7勝がオール逃げ切り。G1
安田記念でハナを切った経験もある、当時の競馬を代表する逃げ馬だ。
他にも逃げのスペシャリストがそろった。
トミケンドリームは過去6勝が全て逃げ切り。
スナークベストも6勝中4勝が逃げ切りだった。
ユーワビームもそれまでの5勝中4勝が逃げ切り。
ツインターボを含め、5頭が“何が何でも逃げたい”というタイプだった。
大外8枠16番からスタートを切った
ツインターボ。オレが逃げるんだと言わんばかりに、前述の馬たちの前方を斜めにカットしながら楽々と先頭を奪った。
だが、当時を代表する逃げ馬たちを置き去りにするくらいだから、やはりペースは速い。2ハロン目から10秒6、そして10秒9。10秒台を2本並べる、怒とうのラップだった。
向正面では6馬身ほどリード。1000メートル通過は57秒4。大逃げだ。3角過ぎには先行各馬がそろって後退。差し、追い込み勢が追い上げを始めた。
中舘英二(現調教師)を背に4角ではインぴったりを回る。2番手との差はまだ5馬身あった。逃げ込みを図る
ツインターボ。4角2番手まで押し上げていた
アイルトンシンボリが懸命に追うが、差は詰まらない。4馬身差をつけて悠々、
ツインターボがゴールへと飛び込んだ。
翌日の紙面。意外にも“主役”は
ツインターボではなく中舘だった。この日、福島で4勝。前年に続いて福島リーディングを獲得した。増沢末夫の引退後、待望久しかった「新・福島男」の誕生と
メディアは受け取った。「何とか面目を保てました」。当時27歳の中舘は、まんざらでもない様子で答えた。
ツインターボの凄さについては笹倉武久師が語った。「勝つか、どん尻か。どっちかだから、そのつもりで逃げろ」。レース前、大胆なアド
バイスを中舘に授けたことを明かした。
「騎手もうまかったが馬も頑張った。めいっぱい褒めてやってください」。笹倉師は目頭を熱くさせているようだった。
「ウチの厩舎のエースですけどね、エースと呼ぶにはあまりにも小さいですよ。神経質で手がかかるからレースぶりも極端。でも、大した馬なんです」
報道陣はさまざまなことを察した。
ツインターボは新馬戦でデビューしてから、この
七夕賞まで13戦。全て逃げてきた。それは陣営が脚質転換を怠ったからではない。神経が細やかな
ツインターボにとって、逃げこそがリズム良く走れる最上の手段だったのだ。
続く
オールカマーも
ライスシャワー、
ホワイトストーン、
シスタートウショウなどの強豪を向こうに回しての逃げ切り。そして
天皇賞・秋。3番人気に推されたが最下位17着と失速した。
これで気持ちが切れたか、中央ではその後に掲示板に載ることなく、95年
新潟大賞典(この年は福島開催)11着を最後に上山へと移籍。96年に引退して種牡馬入りしたが、98年に心不全であっけなく世を去った。
その後、逃げ馬の系譜は
サイレンススズカ、
パンサラッサへと引き継がれた。
パンサラッサが世に出始めた頃、「令和の
ツインターボ」という形容詞があちこちで見られたことは感慨深い。あの
七夕賞から四半世紀以上が、ゆうに経過したが、あの魂の逃走を後世に引き継ごうというファンがいることに胸が熱くなる。
スポニチ