ドウデュースが引退した。ラストラン予定だった
有馬記念2日前の出走取消。友道調教師は歴代最多の投票をしてくれたファンに何度も謝罪した後、こうつぶやいた。「最後の最後に
ドウデュースらしかったのかな」。
友道師から
ドウデュースの魅力について、何度も「順調じゃない、浮き沈みがあるところが愛されているんじゃないかな」と聞いた。その話に、ふと重なり合った記憶がある。
今から40年以上前の大学時代。全く競馬を知らなかった友道師が勧誘された馬術部に入り、京都競馬場のバイトを始めた頃だ。ちょうど
ミスターシービー、
シンボリルドルフと3冠馬誕生の瞬間を2年連続、現地で見守った。「完璧に近いルドルフよりはシービーのファンだったんですよ。やっぱり、判官びいきというかね」。山あり谷ありのシービーが描くドラマを追いかけた学生時代。だからこそ、
ドウデュースを愛してくれるファンの気持ちが十分に分かっていた。
そのバイトをしている頃。検量室前でヒョロッとした背の高い赤白帽をかぶった競馬学校生を見つけた。「新聞か何かで武邦彦さんの息子さんがいるというのは見ていたんですよ」。
武豊騎手だった。遠くで見ていた競馬学校生は揺るぎない日本競馬の第一人者となり、自らも日本を代表する調教師となったが、特別に深い関係というわけではなかった。
ドウデュースと過ごした3年半を経て、友道師は言う。「レジェンド
武豊が人間・
武豊になったような感じがします」。22年のフランス遠征では宿泊しているホテルに
武豊騎手が自ら車を運転して、出迎えに来てくれたことに驚いた。酒席をともにすることも増え「(キー
ファーズのオーナーの)松島(正昭)さんと、ふたりがよく飲むからね」と今まで芋焼酎が多かった2杯目は
ハイボールに変わるようになった。オンでもオフでも温かい人間性に接し、厚い信頼が生まれた。
数々の思い出を刻み込んできたが、最高の思い出はすぐに出てくる。「やっぱり、
武豊でダービーを勝ったということじゃないかな」。3度目のダービー制覇だったが、今までの2回とは違い、人馬が帰ってくる姿をスタンドから見守った。府中の杜に響いた大きな
ユタカコールは、まだ耳に焼き付いている。「3年半か、アッという間に過ぎていった感じがするよね」。
ドウデュースと歩んできた充実の日々。それは、友道調教師にとって自らのルーツをたどる“旅”だった。(山本 武志)
スポーツ報知