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尾形一門

  • 2012年09月22日(土) 12時00分
 先週と今週、美浦トレセンで、尾形充弘調教師にお会いした。

 日本調教師会の会長をつとめる尾形師は、1998年の有馬記念、99年の宝塚記念、そして同年の有馬記念……とグランプリを3連覇したグラスワンダーの管理者として知られ、先日通算700勝を達成した伯楽である。

 祖父は、近代競馬の黎明期に日本の競馬界に君臨した故・尾形藤吉氏。調教師としてダービーを8勝し、八大競走完全制覇、最多勝利調教師獲得12回など、数々の金字塔を打ち立て「大尾形」と呼ばれた人だ。尾形一門からは、日本にモンキー乗りをひろめた保田隆芳氏、ミスター競馬・野平祐二氏など多くのビッグネームが輩出している。

 最年少ダービージョッキーの前田長吉さんも、尾形藤吉氏の門下生だった(最初に弟子入りした北郷五郎調教師が亡くなり、尾形厩舎に移籍した)。

 前田長吉さんが尾形藤吉厩舎の牝馬クリフジでダービーを勝ったのは、戦時中の1943年。

 このとき、長吉さんは20歳。尾形藤吉氏は51歳で、これがダービー3勝目だった。この伯楽が若手騎手を起用し、それを栗林友二オーナーが認めてくれたからこそ、20歳3か月の最年少ダービージョッキー誕生という歴史的瞬間が現実のものになったのである。

 私にとって長吉さんは「書かざるを得ない対象」という意味で特別な存在であり、その特別な人の恩師の孫が尾形充弘師、というわけだ。これまで、囲み取材のような形で言葉をかわしたことはあったが、膝をまじえて話したことはなかった。それでも今回は、グリーンチャンネルの後藤博英氏が間に入ってくれたおかげで、私がナビゲーターをつとめる特番に出演していただけることになり、インタビューに先立つご挨拶として、厩舎にお邪魔することになった。

 伝説の「大尾形」の後継者である尾形師と初めてゆっくり話すことになったのだから、当然緊張したが、遠巻きに想像していた「厳しく、怖い人」というイメージとはまるで異なる、気さくで、優しい人だった。

 制作中の特番は、ひとつのテーマで30分のものを13本という恐ろしいボリュームで、尾形充弘師に出演してもらうのは、尾形藤吉氏の功績を振り返る30分番組である。

 カメラを回してのインタビューではどんなことを質問する予定かを私が話し、ひとつ例を挙げるたびに、尾形師は、カメラが回っていないのがもったいないと思うほど丁寧に答えてくれた。

 そうした打合せの終わりぎわに、私は前田長吉さんの兄の孫が獣医師になってJRAに入会し、今、美浦トレセンの診療所に勤務している……ということを伝えると、師は、
「え、それは本当なの?」
 と、とても驚いた様子だった。
 そして、私たちが厩舎をおいとまするとき、笑顔でこう言った。
「いやあ、きょうは前田長吉さんの親族が近くにいるとわかっただけもいい一日でした。ありがとう」
 私にとっても素晴らしい一日になった。

 そして1週間後のインタビュー当日。前述した打合せのあと、質問コンテをファックスしておいたところ、尾形師はそれを読んで言葉を整理しておいてくれたらしく、理路整然としながらも深い味わいのあるインタビューになった。

 テープを替えているときだったか、それとも質問の合間だったか、師がそういえば、と思い出したように言った。

「この前、話を聞いてから、前田さんに会いに診療所に行ったんですよ。そうしたらちょうど出張中で、いなかった。残念だったなあ」

 その言葉を聞いて、私はますます尾形師のファンになってしまった。

 尾形一門が日本の競馬界を席巻する大勢力になったのは、総帥の尾形藤吉氏が門下生を大切にし、それと同じように弟子たちが師を慕いつづけたからである。

 人間を、人との縁を、人とのつながりを大切にするという、当たり前のことだが、口で言うほど簡単ではないそれを、藤吉氏も、孫の尾形師も(強く意識してか、自然にできるのか私にはわからないが)、こんなふうにしつづけてきたのだろう。

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作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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