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小岩井農場とサラブレッド

  • 2012年10月13日(土) 12時00分
 グリーンチャンネル特番「日本競馬の夜明け」の岩手ロケの帰りの新幹線で、この原稿を書いている。

 今回取材したのは、盛岡市内の旧黄金競馬場跡地など、昭和の初めに日本で最初の女性騎手となった斉藤すみが訪ねた場所と、日本ダービー草創期に下総御料牧場と覇を競った小岩井農場などだった。

 盛岡に着いた時点で東京よりずいぶん涼しいというか寒く感じたのだが、そこからクルマで30分ほどの雫石町にある小岩井農場は、さらに寒かった。残暑が厳しく、長い夏がようやく終わったと思ったら、冬に向かって一気に駆け足……という感覚は雫石でも同じらしい。話を聞かせてもらった小岩井農場経営開発室の野沢裕美さんによると、ここ数日で急に寒くなったのだが、紅葉は例年よりひと月ほど遅れているとのことで、雪をまとった姿は見事だろうと思わせる岩手山の山肌も、まだ夏の色を残していた。

 日本最大級の民間総合農場である小岩井農場を知らない人はあまりいないだろうが、ここでサラブレッドの生産が行われていたことを知らない人は、競馬ファンのなかにも結構いるのではないか。戦後、GHQの占領政策の影響で育馬事業、つまりサラブレッドの生産・育成事業を廃止したのが今から60年以上前の1949年なのだから、それも仕方がないと思う。

 だが、小岩井農場が1907年にイギリスから輸入した20頭の牝馬(同時に種牡馬も1頭輸入した)に端を発する「小岩井の牝系」からはウオッカやスペシャルウィークなど多くの駿馬が輩出し、今も日本の競馬界における一大勢力として重要な位置を占めている。近代競馬150周年という節目の今年、小岩井農場が日本競馬の黎明期に果たした役割などをあらためて振り返る意義は大きいはずだ。

 が、育馬部が廃止されて60年以上たち、そこで働いていた人たちが退社して久しいので、詳しい話を聞くのは難しいと思われた。ならば、せめてサラブレッド生産牧場としての往時をしのばせる風景を撮影し、そこで私が問わず語りでもすることになるのかな……と思っていたら、前出の野沢さんからとても興味深い話をいくつも聞くことができ、嬉しい誤算となった。

 現在小岩井農場で働いている人の多くがサラブレッドを生産していた当時のことをある程度伝え聞いているらしく、また、野沢さんの場合、大叔父にあたる人がかつて育馬部で働いていたので、その人から直接いろいろ話を聞いていたのだという。

 戦前の競馬や馬産には、軍需資源である馬匹の強化という大義名分があった。そんななか、繊細で、敏感すぎるサラブレッドは軍馬に不向きとされてもなお小岩井農場がサラブレッドの生産をつづけたのはなぜか。それに対する野沢さんの答えには「なるほど」と思わされた。と同時に、競馬ファンとして嬉しくなった。それがどんなことかは、番組をご覧いただきたい。

 平日にもかかわらず、「小岩井農場まきば園」にはたくさんの来場者がいて、資料館をガイドに案内してもらっていた30代半ばとおぼしき女性などは、観光というより研究に来ていたかのように熱心だった。私が野沢さんに、小岩井農場を愛した宮沢賢治がサラブレッドについて書いたものはないか訊き、「残念ながらありませんが、俳人でもあった場長が馬の句を詠んだことはあったようです」という答えをもらうと、近くにいたその女性が「どんな句ですか? 何か作品が残っていますか?」と、目をギラギラさせて野沢さんに質問していた。

 以前、角居勝彦調教師も、管理馬を岩手の交流競走に使いに来たとき、ここまで足を伸ばしたことがあったという。「おお、ウオッカちゃんに関する展示がある、と嬉しくなりました」と笑顔で話してくれた。

 今、後方から異音がするので何だろうと思ったら、誰かのイビキらしい。一緒にロケをした小山田励ディレクターだろうか。するつもりがなくても「一日一食ダイエット」になってしまうほどのハードスケジュールだったから、疲れて当然だ。

 私も少し寝て、推敲してからこれを編集部に送ろうと思う。

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作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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