1月25日に45歳を迎え、現役生活28年目に突入した熊沢重文騎手。これまでの活躍を振り返る上で、欠かせない馬たちがいます。1991年の有馬記念でメジロマックイーンを破ったダイユウサク、そして今や種牡馬として大活躍のステイゴールド。忘れられない思い出を語ります。(2/11公開Part2の続き)
東 :熊沢さん、1月25日が45歳のお誕生日ですね。
熊沢 :もう気にしないことにしているんですけどね。四捨五入すると、もう50歳やから。もう限界が来ています。ムチ打って仕事していますよ(笑)。
東 :自分にもムチ打って(笑)?
熊沢 :そうそう、馬よりも自分に(笑)。
同期の横山典弘騎手(撮影:下野雄規)
東 :競馬学校の第2期生で、同期には横山典弘騎手や今は調教師の松永幹夫先生がいらっしゃいますね。
熊沢 :すごい人がいるでしょう。だから僕はもう、こそっとね。
東 :横山騎手も現役で頑張られていて、意識されたりしますか?
熊沢 :彼が頑張ってくれているのは励みになります。やっぱり人間って、自分より上の人間がいてこそだと思うんです。まあ、上に行ったら行ったで、それはまた大変なんでしょうけどね。でも、身近にそういう存在がいてくれるお陰で、ずっとモチベーションを保ってこられたのはあると思います。
東 :良いご関係ですね。熊沢さんが騎手になられたきっかけに、南井克巳調教師とのご縁があったそうですが?
熊沢 :直接の知り合いではなかったんですけど、うちの父が入院して、同室に南井先生のお父様がいらしたんです。そこで親同士が話をしている中で、僕は身体も小さかったですし、「騎手という仕事もあるよ」って紹介していただいて。それで興味を持ったんです。
東 :元々馬にご興味があったんですか?
熊沢 :僕らの田舎は、毎年お祭りで馬を使っていたんですよ。近所でお祭りに出す馬を飼っていて、その馬を神社で走らせていたんです。
東 :立派なお祭りですね。
熊沢 :結構立派なお祭りでしたね。そういうものがあったので、馬は意外と近くにいたんです。で、所属になる内藤(繁春)先生を紹介していただいて、それから競馬学校を受けて、上手いこと受かることができたんですね。
東 :競馬学校の競争率は、その時も高かったんですか?
熊沢 :はっきりした数字は分からないですが、20倍くらいとは言われていました。よっぽど運が良かったんですね(笑)。
東 :いや、やっぱり熊沢さんも持っていらっしゃると思います。だって、病院の一室での偶然の出会いがあって、そこからですもんね。
「騎手になる運命だったのか」
熊沢 :その頃は本当に何を苦労するわけでもなく、トントンと話が進んで。「ああするんだ、こうするんだ」と思っている間に競馬学校にも入ることができて。そういう意味では運が良かったですし、そういう運命だったのかなというのは思いますね。
東 :騎手になられることは運命だったんですね。今までのご活躍を振り返って、まず思い浮かぶレースと言ったら何になりますか?
熊沢 :自分が勝たせてもらったレースはみんな思い入れがありますが、やっぱり僕にとって本当に大きかったのは、ダイユウサクですかね。
東 :1991年の有馬記念ですね。しかも、すごい人気薄での勝利でしたから(15頭中14番人気)、余計に気持ち良かったんじゃないですか?
熊沢 :人気なかったですからね。レース前は気にしていなかったんですけど、まさかブービーだとは(苦笑)。終わってから聞いてびっくりしたんですけどね。でも、馬の調子がすごく良かったので、僕的には期待していたんです。ダイユウサクは、元々あまり体質の強い馬ではなかったんです。有馬記念を勝った時が7歳(現表記6歳)ですからね。デビューも、4歳(現表記3歳)の10月でしたから。
東 :遅めだったんですね。
熊沢 :遅かったですね。しかもデビュー戦と2戦目、2回ともタイムオーバーになっているんですよ。デビュー戦の着差、13秒ですからね。
東 :13秒!? 後のGI馬が…びっくりです。
熊沢 :そうでしょう? その当時は、痛いところ抱えながら走っていたんです。だから、能力でのその結果ではなくて、やっぱり体質の弱さでしたね。僕が乗って最初に勝った時が5歳(現表記4歳)の未勝利戦で、(ルールで)ローカルでしか走れなかったんですよね。
東 :そこからのGI勝利なんて、うれしいですね。
熊沢 :ええ。有馬記念はもちろんうれしかったですし、そこで勝てたからこそ、乗せてくださる厩舎や馬主さんもいたんです。だから、ダイユウサクで有馬記念を勝っていなかったら、今の自分はいないと思いますね。何年経っても感謝しかないです。
東 :また、38戦中27戦が熊沢さんとのコンビ。長い期間一緒に過ごされたんですね。
熊沢 :乗れていないのは僕が騎乗停止中の時とか、違う競馬場で乗っている時くらいかな。人懐こくて、すごくかわいい馬なんです。だから、すごく思い入れがありますね。今は北海道の牧場にいるんですよね。会いに行きたいんです。
東 :ダイユウサクは1985年生まれだから、今年で28歳。20年ぶりの再会になりますね。そしてもう一頭欠かせない馬と言ったら、ステイゴールド。50戦もの戦績の中で、一番多く乗られたのが熊沢さんなんですよね。
熊沢 :一番たくさん乗せてもらったのに、一番勝てなかったですからね。
東 :大きいところでいつも2着3着というのも、応援したくなるところと言いますか。ファンの方が多い馬ですよね。
熊沢 :そうですよね。乗り替わってからポンポンと勝っていったのは、すごく悔しい部分もありますが、調教も毎日乗って、本当に何年もずっと一緒に過ごした馬でしたからね。自分ではあまり勝てなかったけれども、最後には大きなところを、GIを勝ってくれて、本当うれしかったです。
東 :海外でGIを獲ったんですもんね。でも、熊沢さんがその下作りをしてこられたんだなと思います。
※2001年12月16日、国際GIの香港ヴァーズを勝利。最後の直線で鮮やかな追い込みを決め、ラストランにして初めてのGIタイトルを手にした。
熊沢 :そうなのか、あるいはもっと早く芽が出たのを僕が抑えつけていたのかもしれないですし。
主戦を務めたステイゴールド
代表産駒のオルフェーヴル
東 :ご自身ではいろんな思いがあるんですね。
熊沢 :やっぱりね、深く考えると、僕じゃなければ勝てたかなというレースは何回もありますので。でも、ずっと乗せていただいたのは、僕にとってすごく良い財産です。ましてや今、種馬としてすごいじゃないですか。絶対成功するだろうなとは思っていたんですけどね。
東 :産駒が活躍すると、またうれしいですよね。
熊沢 :そうですね。乗ったことのある馬の子どもというのは、「よく似ているな」とか「全然違うな」とか、どうしても比べちゃうんですね。
東 :オルフェーヴルのヤンチャさは、ステイゴールド譲りですかね。
熊沢 :ねえ。ステイゴールドもヤンチャな馬でね。小さい馬なんですけど、毎日2〜3回は立ち上がっていました。良いところも悪いところも、見ているとやっぱり「あぁ」って思います。そこはそこでまた、僕にしか分からない感覚というのもありますので、面白いですけどね。
東 :ダイユウサクやステイゴールドのように、縁の深い馬が引退するときは悲しいですか?
熊沢 :まあ、形にもよりますね。良い形で種馬になってくれたり、牝馬にしても繁殖に上がってくれれば、またその仔に会うことも可能ですので。
東 :競馬って、ずっとつながりますよね。
熊沢 :そうですよね。そういう意味では馬も人も、良いつながりでみんなが高いところまで行けるんだと思います。(Part4へ続く)
◆次回予告
次回は熊沢重文騎手インタビューの最終回。今年45歳を迎えたベテランの熊沢騎手。1期先輩の石橋守騎手が調教師試験に合格し、2月いっぱいで現役引退。熊沢騎手ご自身はこの先をどのように考えているのか。同期横山典弘騎手との知られざる会話も必見。公開は2/25(月)12時、ご期待ください!
◆熊沢重文
1968年1月25日、愛知県出身。栗東所属フリーの騎手。競馬学校第2期生として、同期は横山典弘、松永幹夫(現調教師)ら。1986年に内藤繁春厩舎からデビュー。デビュー3年目の1988年、コスモドリームでオークス優勝。当時の最年少GI勝利記録を打ち立てた。1991年ダイユウサクで有馬記念を勝利。2012年中山大障害をマーベラスカイザーで制し、(グレード制導入以降)史上初の平地・障害でのGI制覇となった。平地・障害両方で活躍する数少ない騎手である。