スマートフォン版へ

ラブミーチャン引退

  • 2013年11月01日(金) 18時00分
 3歳のころからJBCをひとつの目標としていたラブミーチャンの電撃引退が発表された。

 JBCスプリントに向けた10月30日の調教後に跛行が見られ、レントゲン検査の結果、右前内側種子骨を骨折していることがわかった。すでに今シーズン限りでの引退が予定されていたため、このまま引退することとなった。

 地方と中央の交流が進んだとはいえ、近年ではそのレベル差は開く一方で、残念ながら地方から交流重賞をいくつも勝つような馬はめったに出てくることがない。それでもごくまれに出現する地方の活躍馬には、かかわる人の馬に対するひとかたならぬ熱意に加え、奇跡とも思える運も持ち合わせていたように思えてならない。

 たとえばアジュディミツオーは、その母オリミツキネンを所有していた織戸光男さんの忘れ形見。息子である眞男さんが引き継いで所有することになったのだが、アジュディミツオーは最後の1頭と決めて所有した馬。過去に所有した競走馬は1頭だけで、織戸眞男さんにとっては2頭目にして最後の所有馬が、NARグランプリの年度代表馬に2度も輝くこととなった。

 コスモバルクは外厩(認定厩舎)制度が始まるにあたっての最初の馬。中央に移籍させることなく地方所属にこだわり続け、そしてシンガポールでの海外GI制覇や、ジャパンCと有馬記念に5年連続で出走したことなどは、岡田繁幸さんの熱意と執念ゆえだろう。

 フリオーソはダーレー・ジャパンの所有馬ゆえ、そうしたドラマ的なことは聞かないが、現役の後半は常に脚部不安との戦いだった。それでいてGI/JpnI・6勝、2着11回、年度代表馬3回は、奇跡の馬といっていい。

 そしてラブミーチャンだ。馬主であるドクター・コパさんに北海道のサマーセールで見初められ、300万円(税別)で取引された馬。当初はJRAの須貝尚介厩舎に入厩したが調教でまったく仕上がらず、コパさんが運気のいい方角として決めた移籍先が笠松だった。2歳時は中央に挑戦してのレコード勝ちもあり、兵庫ジュニアグランプリから全日本2歳優駿も制して5戦5勝。NARグランプリ史上初の2歳馬による年度代表馬となった。

 結果的に8月のクラスターCが現役最後のレースとなったが、今年は6戦5勝。そのうちダートグレードも2勝と、6歳になって2歳時以来の充実ぶりを見せていた。

 ぼくは幸運にも、名古屋でら馬スプリント、習志野きらっとスプリント、そしてクラスターCと、最後の3戦を生で観戦することができた。そして東京盃を疲れで回避すると聞いたとき、もしかしてクラスターCがピークだったんじゃないかなと感じていた。

 馬を擬人化するのはまったく趣味ではないが、東京盃の前の疲れ、そしてJBCを前にしての骨折は、「もう走りたくない」というラブミーチャンの主張だったのではないかと思えてならない。

 それにしてもレース中の骨折などではなく、その後に影響を残さない程度の軽度の骨折だったことは不幸中の幸いだった。

 成績としても、4連勝で現役を終えられたことは、ラブミーチャンにとって幸せなことではなかっただろうか。

ラブミーチャンの現役最後のレースとなったクラスターC

ラブミーチャンの現役最後のレースとなったクラスターC

1964年生まれ。グリーンチャンネル『地・中・海ケイバモード』解説。NAR公式サイト『ウェブハロン』、『優駿』、『週刊競馬ブック』等で記事を執筆。ドバイ、ブリーダーズC、シンガポール、香港などの国際レースにも毎年足を運ぶ。

バックナンバー

新着コラム

アクセスランキング

注目数ランキング