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前田長吉の新資料

  • 2014年08月16日(土) 12時00分


【お知らせ】
2015年4月25日(土)から6月28日(日)まで、東京競馬場の競馬博物館・特別展示室で、特別展『伝説の騎手・前田長吉の生涯』が行われます。詳細はこちらのニュースをご覧ください。

残っていた長吉直筆の文書

 終戦記念日の8月15日にこの稿を書いている。

 私はテレビの視聴時間が長いほうではないので感覚的に間違っているかもしれないが、年を経るごとに、戦没者の遺骨の入った白い箱が遺族に手わたされるニュース映像を見る機会が少なくなっているような気がする。

 69年前のきょう終結した大戦で、約310万人もの日本人の命が奪われた。

 海外戦没者は約240万人。うち約127万柱の遺骨が今年7月末までに収容された。

 そのひとりが、1943年、牝馬クリフジに騎乗し、史上最年少記録の20歳3カ月でダービーを勝った前田長吉である。

 長吉は、ダービーを勝った翌年の秋、旧満州に出征。そこで終戦を迎え、旧ソ連に抑留された。シベリアの収容所で強制労働に従事させられ、終戦の翌年、46年2月28日、栄養失調のため亡くなった。23歳になったばかりだった。

 シベリアの凍土で眠っていた、その長吉の遺骨がDNA鑑定で本人のものとわかり、2006年初夏、青森県八戸市是川の生家に返還された。出征直前に帰省して以来、実に62年ぶりの「帰郷」であった。

熱視点

06年初夏に行われた前田長吉元騎手の遺骨の伝達。左が本家代表の前田貞直氏


 長吉の遺骨の返還式(伝達)は06年7月4日に行われ、30人ほどの親族のほか、地元のテレビ局や新聞社など20名ほどの報道陣が集まった。

 国費による戦没者のDNA鑑定が始まったのは03年で、長吉の遺骨が帰郷した前月、06年6月までに鑑定で身元が判明したのはわずか271人だった。私が当時調べたとき、海外に残されていた戦没者の遺骨は115万柱ほどだったが、それが現在は113万柱ほどになっている。この8年ほどの間に2万柱ほどが国内に収容されたのだ。

 うち、今年7月末の時点で、DNA鑑定で身元が特定されたのは954人。長吉の遺骨が帰郷したころから700人近く増えている。

 それでも1000人に満たない数だ。前述したように、海外戦没者が約240万人いるのだから、身元がわかったのは2500人にひとりぐらいしかいないわけだ。

 日本にモンキー乗りをひろめたことで知られる保田隆芳氏は、尾形藤吉厩舎における長吉の兄弟子で、長吉より3歳上だ。保田氏は20歳になった1940年に出征し、46年に復員したのだが、母の幸子さんは45年3月の米軍による東京大空襲で亡くなった。さらに、学徒出陣で駆り出された兄の敏夫さんは南方で戦死。氏名と部隊名を記した真鍮の認識票と、その近くにあったらしき、誰のものともわからぬ指の骨が一本送られてきただけだったという。

 戦争は、大切な人の命を奪い、その人間の尊厳をも踏みにじる。

 シベリアに抑留された日本人は約57万5000人。うち約5万5000人が死亡した。旧ソ連共産党による国際法無視の蛮行も、戦争の産物にほかならない。

 零下20度にも30度にもなる極寒の地で迎えた最初の冬に、長吉は亡くなった。

 長吉より21歳上の長兄・長太郎の孫にあたる、前田家本家代表の前田貞直さんは、長吉が競馬で使用した鞭や長靴、拍車、鉛の板を入れて斤量を調整する「鉛チョッキ」といった長吉の遺品を大切に保管している。

 貞直さんは、子供のころ、学校から帰って縁側に腰掛けたり、そこで片肘をついて横になることがよくあった。ふと居間の長押のほうを見ると、祖父にとって自慢の弟だった前田長吉がクリフジの背に乗り、大勢の観客に囲まれている写真が目に入った。

 ――大叔父は、競馬で日本一になった。あの人は、前田家の誇りだ。

 そう思い、長吉をずっと、近くにも遠くにも感じながら大人になった。

 その貞直さんから、是川の前田家本家を整理していたら、長吉に関する新資料がいくつか出てきたと連絡が来た。

 ひとつ見つけるごとに、貞直さんは写メを送ってくれた。長吉が東京競馬場で下乗りをしていたとき、兄の長太郎に出した葉書、20歳のときに受けた徴兵検査の修了証、召集されたとき、餞別をくれた人の名簿の接写……などなど。

 兄に宛てた葉書には、最初に師事した北郷五郎の死後、尾形藤吉厩舎に移籍する日にちなどが記されており、年月がはっきりとわかる消印が残されていた。それにより、長吉が家出同然に生家を飛び出し上京した時期をほぼ特定できるようになった。

熱視点

長吉が下乗り時代、兄に宛てた葉書。これにより、長吉が16歳だった1939年に上京したことが明らかになった


 何より、長吉の直筆の文書がこうして残されていることに驚いた。

 また、徴兵検査修了証では「丙種」と分類されたことがわかった。そのため現役兵として即入営する必要がなくなり、クリフジに騎乗しつづけることができたのだ。

 そして、餞別をくれた人の名簿には、野平祐二、田村仁三郎、橋本輝雄といった競馬ファンにおなじみの名があった。

 貞直さんのお宅を訪ね、ほかにも出てきたという二十数点の新資料を見せてもらった。長吉の直筆の書簡が2通あり、また、満州に出征した友人から彼に送られた葉書や、クリフジの栗林友二オーナーから京都競馬場に出張中だった長吉に宛てた書簡などもあった。

 満州に出征した友人は、文面から察するに、北郷厩舎にいたとき、ともに働いた厩務員だと思われる。長吉が、クリフジでダービーを勝った記事が掲載された「優駿」を送ったことに対する礼状だった。戦地の友人を思いやる長吉の人柄がしのばれるやりとりが、そこにあった。

 取材を終え、東京に戻った私に、貞直さんがまたメールをくれた。

 長吉の兄の長太郎が昭和8(1933)年の春、村会議員に立候補するにあたっての挨拶状が添付されていた。長太郎がいつ当選したかがわかる資料だ。

「長吉が(タクシーで)帰ってきた夢を何回か見ました」

 貞直さんからのメールにはそう記されていた。涙を流して目を覚ましたこともあったという。

 私にできるのは、こうして伝えていくことだけだ。これからも、できることを、つづけていきたいと思う。

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作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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