先日、JRAの図書室から国立国会図書館へと調べ物のハシゴをしたあと、新橋に戻って例の居酒屋を覗いてみたら、案の定、ディレクターのレイが顔を赤くしていた。
「あれ、島田さん。どうしてここだってわかったんスか?」とレイ。
「ヴィクトリアマイルの日、帰り際にお前が払戻し窓口のほうに歩いて行くのを見かけたからさ」
「エーッ? ということは、たかるためにわざわざ来たんスか。ひどいなー」
そう言いながらも嬉しそうに、店主にことわりもせず冷蔵庫からウーロン茶を出し、私に注いでくれた。
「レイ、まさか、3連単の2千万円馬券を獲ったんじゃないだろうな」
私が訊くと、彼は右手をヒラヒラさせて笑った。
「あれを獲っていたら、こんな店に来ませんよ。馬連です」
「そうか、そうだよな」
この失礼なやり取りを聞いても、店のオヤジもオバチャンも表情ひとつ変えない。私たちの言葉を単なる「音」として耳朶を通過させているからかと思いきや、だし巻き卵に豚の角煮、サツマイモの天ぷら……と、何も言わなくても私の好物を次々と出してくれる。私のことも、何を話しているかも、わかっているようだ。
「そうだ、前田長吉展、よかったですね」
レイが、塩サバの身をほぐしながら言った。特別展会場のモニターでは、2012年の秋にオンエアされたグリーンチャンネル「日本競馬の夜明け」の前田長吉の回の前・後編を合体させた特別版が流されている。番組ナビゲーターが私で、演出を担当したのがレイである。
「貞直さんもダービーの日、東京競馬場であの展示を初めて見ることになるんだ」
「貞直さん」とは、最年少ダービージョッキー・前田長吉の兄の孫で、青森県八戸市にある前田家の嫡男、前田貞直さんのこと。クリフジで制してから72年後のダービーを、小さいころから憧れていた大叔父に見せるため、その写真を持って競馬場を訪れる。
「貞直さんによろしくお伝えください」
「うん、すごく楽しみにしているみたいだよ」
それからしばらく、「サダナオ」のどこにアクセントを置いて発音すべきか、「翌年」は「ヨクネン」ではなく「ヨクトシ」でもいいのか、「天馬」は「テンマ」ではなく「テンバ」だろう……といった、活字媒体での仕事がメインの私と、音にしなければならないディレクターのレイとの間で何度も繰り返されてきた話になった。
「ところで、スマイルジャックの嫁さん選びは順調なんですか」とレイ。
「ウーン、まだひとケタの牝馬にしか付けていないらしい」
「厳しいんだなー」
「コビさんは、これから、ほかの種牡馬を付けて受胎しなかった牝馬が回ってくるだろう、って言ってたけどね」
「なるほど」
「コビさん」こと小桧山悟調教師は、来週北海道に行くときも、アロースタッドに寄って、スマイルの様子を見てくるらしい。
「コビさんが見つけてきた繁殖牝馬に付けた、というケースも何頭かあったらしいよ。生まれた仔は、将来、自分で管理するつもりなんじゃないかな」
「ああ、受け入れ先が決まっているなら、生産者にとっては、スマイルを付ける合理性がある、ということになりますね」
「買い手も、コビさんが見つけるつもりだろう」
「そこまでしてもらうスマイルジャックは幸せですね」
「たぶんコビさんは、『それ以上に、自分がスマイルに幸せにしてもらったから』って言うと思うよ」
「カッコいいなー」
「うん、スマイルの産駒から、びっくりするぐらい強いのが出ると、もっとカッコいいね」
外で甲高い笑い声がしたと思ったら、キャスターのユリちゃんが入ってきた。
「あっ、レイさんと島田さん、こんばんはー。オークスの予想ですかー」
そうではなかったのだが、プロデューサーのソブさんと、能書きだけで馬券をめったに買わない「ケンのサトさん」も加わり、オークスの検討会になった。
万馬券を獲ったレイの勢いに乗っかりたかったのだが、彼はまだ軸を決め切っていないという。
私としては、ルージュバックが勝つと、スター誕生の華々しさがある結末になっていいと思うのだが、どうだろう。