9月7日から18日まで、ブラジルのリオデジャネイロでパラリンピックが開催された。日本代表は、金メダルこそゼロに終わったが、総数では前回のロンドン大会を上回る24(銀10、銅14)のメダルを獲得した。
日本代表として参加した選手は132人(男子86人、女子46人)。
そのひとり、馬術に唯一の日本代表として出場した宮路満英選手(58)は、かつてJRAの調教助手だった。スポーツ新聞で久しぶりに宮路さんの名前を見たとき、17年前の懐かしいシーンが脳裏に蘇ってきた――。
1957(昭和32)年10月29日、鹿児島県で生まれた宮路さんは、22歳だった80年、栗東トレセンに入り、宇田明彦厩舎、森秀行厩舎で調教助手として働いた。森厩舎時代には、93年のジャパンカップを勝ったレガシーワールド、97年のNHKマイルカップ、98年の仏GIモーリスドゲスト賞を制したシーキングザパールなどの調教に携わっている。
しかし、47歳だった2005年7月、脳卒中に襲われ、厩舎で倒れた。3週間意識が戻らず、右半身麻痺と高次脳機能障害(失語症、記憶障害)の後遺症が残った。トレセンへの復帰は叶わず、07年に退職。27年に及んだホースマンとしてのキャリアにピリオドを打った。
リハビリとして、知人が持つミニチュアホースと散歩をしているうちに、また馬に乗りたいと思うようになり、乗馬クラブで乗馬を始めた。そして、昨年からイギリス、ドイツ、フランスなどで国際大会に出場して結果を出し、今年のパラリンピックに出場するまでになった。
障害者馬術は、障害の程度などにより5つのクラスに分けられている。左手だけで手綱を操る宮路さんは、2番目に重い「1b」。9月14日に行われたパラリンピックでは11位だった。
その宮路さんが、シーキングザパールとともにアメリカに遠征した99年1月、私は現地で1週間ほど行動をともにした。
森厩舎からもうひとり、当時所属していた大久保諭調教助手も帯同していた。宮路さんが厩務員業務を担当し、大久保助手が調教で騎乗する、といった役割分担だった。
日本財団パラリンピックサポートセンターのサイトでは、宮路さんのニックネームが「みやじぃー」と紹介されている。が、大久保助手は、もっと短く「ジィ」と呼んでいた。当時、宮路さんは41歳、大久保助手は20代半ば。「ジィさん」ではなく「ジィ」でも、「なんや」と普通に応えていたところに、宮路さんの人柄が表れていた。
シーキングザパールが出走したのは、アメリカ西海岸のサンタアニタパーク競馬場で99年1月23日に行われたサンタモニカハンデキャップ(GI、ダート1400メートル)だった。
同馬はこのとき5歳。良血のお嬢様なのだが、気性が激しく、レース中に逸走し、鞍上の武豊騎手に「弁当を買いに行きよった」と言わしめたほどだ。トレセンでは大久保助手も何度か振り落とされて怪我をしたことがあったという。
朝の調教終了後、そのシーキングを、宮路さんが、滞在先のパトリック・ギャラハー厩舎の前で曳いていたときだった。
少し前まで同馬の調教に乗っていた武騎手が、斜め上に目をやって笑った。
「あのネコ、なかなかいいポジションにおるでェ」
キジトラのネコが、厩舎の屋根に座ってこちらを見ていた。
「あそこからパールの背中に飛び移ったら、大騒ぎやな」と大久保助手。
宮路さんとしては苦笑するしかなく、ネコの近くを通るたびに、横目で様子をうかがっていた。
そして、サンタモニカハンデキャップ当日。
パドックと、馬場入りのときは、宮路さんと大久保助手の二人曳きだった。ほかの出走馬は「ポニー」と呼ばれる大型馬とペアになって入場したが、シーキングはポニーをつけず、単独での馬場入りとなった。
スタンド前で大久保助手はシーキングから離れ、曳き手綱を手に戻ってきた。宮路さんは、繊細なシーキングの性質を考えてのことだろう、スターティングゲートまで同馬を曳いて行くことにしたようだ。
アメリカの競馬場はすべて左回りで、芝コースが内側、観客に近い外側にダートコースがある。ダート1400メートルのスタート地点は、スタンドから見て右奥、向正面から伸びる引込線の先にある。
宮路さんが、シーキングザパールから曳き手綱を外したのは、スタート地点のあたりだった。2コーナーの奥である。
日本なら、厩務員はマイクロバスに乗り合わせてスタンドまで戻ってくるのだが、厩務員が曳いてゲートまで行く習慣のないアメリカには、厩務員用のバスなどという気の利いたものはない。
馬場入りしてから発走までの時間が短いのもアメリカの特徴だ(というか、日本が長すぎるのか)。
このままだと、宮路さんは、ゲートのあたりにポツンととり残されてしまう。それに、そこからではシーキングのレースを見ることができない。
そのピンチを、宮路さんは、意外な方法で打開した。
宮路さんは、走り出した。
まずは、引込線から2コーナーへ。
そして、2コーナーから1コーナーへと、外埒にそって、コースの外側を、タッタッタッタ……と走り出したのだ。
コースを逆走する形で、宮路さんは外埒沿いを走りつづけた。
そのとき、私はスタンドのボックス席に近いところにいた。
周りがざわつき出したことで、2コーナーのほうから、コースの外側を走ってくる人影に気づいた。
そのときはそれが宮路さんだとは知らず、
――どうしたのかな。まあ、そのうちコースから外れて止まるだろう。
と、ただ眺めていた。
走ってくる人影は、1コーナーに入ってもまったくスピードを落とさない。同じペースを保ち、こちらに近づいてくる。
競馬場のコースというのは、人間が走るにはあまりに広く、長く、そしてタフだ。それでも人影は、背筋をピッと伸ばし、タッタッタッタ……と走りつづけた。
スタンドのざわめきが大きくなり、歓声や口笛がまじり出した。
人影は、かなりの速さを保ったまま直線に差しかかった。観客の声援が、レース並みに大きくなったそのとき、人影が、2、3度、スタンドに向かって拳を突き上げた。そのガッツポーズを見て、私は、人影が宮路さんであることに気がついた。
スタンドの興奮は頂点に達し、宮路さんは、大きな声援と拍手につつまれながら、ゴール前に戻ってきた。
おそらく、ここサンタアニタに限らず、GIのスタート前に人間がコースを走ってこんなにスタンドが沸いたのは、世界で初めてのことだったはずだ。
シーキングザパールは、初のダートだったにもかかわらず4着と頑張った。
その走り以上に、私は、宮路さんの走りに勇気づけられた。
なぜ宮路さんは走ったのか。途中で止まってもよかったのに、どうして最後まで走りつづけたのか。
本人としては、とにかく戻ろうという一心だったのかもしれないが、私はこう考えた。
走りつづける理由は、「走りはじめたから」ということでいいのではないか。なぜ走りはじめたかは、さして重要ではない。走り出したのは、ほかならぬ自分自身だ。動機がどうあれ、とにかく、自分で決めて走りはじめたのだから、最後まで走り抜く。
これは、物書きの自分が、なぜ書きつづけるのか、といったことにも通じる。
なぜだとか、何を目指すのだとかは置いておき、書きはじめてしまったから、書きつづける。それでいいではないか。
宮路さんは、走りつづけた。
17年前、サンタアニタで半マイル弱を走り抜いた宮路さんは、病に倒れながらも再び立ち上がり、パラリンピックで雄姿を見せてくれた。
あらためて、すごい人だな、と思った。