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馬のたてがみ切り取り事件に思う

  • 2019年09月19日(木) 12時00分
 先日、馬のたてがみに関する、嫌なニュースが報じられた。

 今月15日、日高町のヴェルサイユファームで余生を過ごすタイキシャトルとローズキングダムのたてがみが何者かによって切り取られていたことがわかった。さらに、フリマアプリ「メルカリ」にタイキシャトルのたてがみが出品されていたこともあったという。

 うらかわ優駿ビレッジアエルで繋養されているウイニングチケットも、同様の被害に遭ったようだ。

 ウイニングチケットのたてがみが切り取られたと思われる時期も近いようなので、同一犯の仕業だろうか。そんな人間が何人もいてほしくないので、ひとりのバカな人間が、今ごろ、警察に身元が特定されるのではないかと怯えていると思いたい。

 ヴェルサイユファームでは、当分の間、見学を中止にするという。致し方ないことだと思う。

 たてがみというのは、当たり前だが、出会った証にもらっていいたぐいのものではない。逆に、亡くなったあと形見にするなど、悲しい思いがこめられることも多いのだから、それをオークションで売ろうと考えること自体、競馬ファンのすることではない。もっと言うと、喜んでそれに高い金を払おうとするファンがいると考えるあたり、無知であり、浅はかである。

 フォームやレースぶり、あるいはルックスが好きになった馬、気持ちを大きく揺さぶられた馬が現役を退いても、私たちの胸の奥にはその馬の躍動した姿や、その走りに震えた感覚の記憶が残っている。

 何年経ってもなくならないその感触を抱いたまま、10歳、20歳と馬齢を重ねたその馬に会いに行く。

 予定を立てるだけで楽しいし、その日が近づいてくると落ち着かなくなる。

 そして、その馬の前に立つ。競馬場で見ていたときとは、実際の距離も、精神的な距離感も、また、自分とその馬の見た目も当然変わっている。

 ただ、自分たちがまた同じ空間にいる、ということだけが確かな事実として、一頭の馬とひとりの人間の存在を証明する。

 懐かしいと思うかもしれない。それはその馬の姿や走りに対する思いかもしれないし、気持ちを動かされたかつての自分自身に対する思い、あるいは、そのとき一緒にいた誰かに対する思いかもしれない。

 変わっていないところもあれば、変わったところもあるだろう。以前は近寄りがたいオーラを感じていたのに、今目の前にいるのは、ふっくらした馬体同様、ゆったりとした精神状態で鼻面を寄せてくる愛らしい一頭の馬かもしれない。

 しばらくそうしていると、どんなにクールな性格の馬でも、必ず目が合う。そして、こちらの存在を認識し、耳を動かすなり、背後にほかの人影を探すなり、何らかのリアクションをする。物言わぬ彼らの、そのときの心持ちに想像を巡らすことも、人と馬との大事なコミュニケーションのひとつだと、私は思っている。

 そうした時間と空間を共有することが、その馬を好きになった人間にとって最大の喜びであり、最高の贅沢である。

 それには、どんなものにも替えられない価値があるはずだ。

 しつこいようだが、なのに、どうしてたてがみなのか。何となく、タピオカの入った飲み物を注文してインスタ用の写真を撮ったら飲まずに捨てる、という発想に近いような気がする。その味と、口に入れたときの幸福感を求めているはずなのに。

 私は、引退後会いに行ったスマイルジャックのたてがみをほしいと思ったことは一度もない。

 と、偉そうなことを言っておきながら、写真は撮っている。なぜ私はスマイルの写真を撮ったのか。ときには仕事のため、ときにはひとりで見直すためだ。ネットオークションに出すためにたてがみを切り取るという、馬のありのままの姿を身勝手な動機で壊す行為との違いは説明する必要がないだろう。

 また札幌の実家に来ている。

 明日は父のすい臓がん摘出手術に向けた受診に付き添い、明後日はノーザンファームと社台スタリオンステーションでディープインパクトに関する取材をする。

 午前と午後にそれぞれ取材があり、間があいてしまうのだが、馬たちの顔でも見ていようと思う。

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作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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