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競馬場を去る7人の伯楽

  • 2022年02月24日(木) 12時00分
 今月末、7人の調教師が定年を迎え、引退する。

 日本の競馬界にとって、大きな存在だった人ばかりだ。藤沢和雄調教師に関しては、師が育てた名馬との関係を軸としたノンフィクションを、当サイトの特集に寄稿した。

 藤沢師は、いかに馬を傷めずに鍛えるか、馬の成長を促しながら使うことがどれだけ重要か――といったことを突き詰め、驚異的な結果を出し、多くのホースマンの馬づくりに影響を与えた。

 Happy people make happy horse.

 藤沢師が大切にしてきた金言である。角居勝彦元調教師がよく言っていた「馬づくりは人づくりから」の原形と言える。鹿戸雄一調教師が開業当初から意識してきた「馬を走りたい気持ちにさせる」という姿勢も、藤沢師譲りのものだ。

 矢作芳人調教師は連闘で臨んだモズアスコットが2018年の安田記念を勝ったとき、「短い間隔で競馬を使うことに関しては日本一得意な調教師だと思っています」と話した。日本一を矢作師と争っていたのはおそらく藤沢師で、厩舎に初の重賞勝ちとGI制覇をもたらしたシンコウラブリイなどは、中1週の連続で阪神3歳牝馬ステークス(3着)に出走させたり、翌年は富士ステークス(1着)からマイルチャンピオンシップ(2着)に連闘させたりと、傍目にはハードに映る使い方をしながらも、長持ちさせた。

 これは、強い調教、メリハリのありすぎる調教をして短く鋭いピークをつくる手法とは真逆の馬づくりをしているからこそ可能だったのではないか。緩やかな好調時を保っていれば、そのどの一点で使ってもいいパフォーマンスを発揮し、なおかつ馬の心身に過剰な負担をかけない、ということなのだろう。私はビッグレース直後のクールな「藤沢節」を聞くのが大好きだった。あの時間が、本当にもう訪れなくなるということを、事実として受け入れることが、今も上手くできずにいる。藤沢師を含め、今年引退する調教師には、個人的にもお世話になった人が多い。

 特に、浅見秀一調教師には、国内外のいろいろな競馬場でご一緒させてもらった。ダジャレの面白い人で、言われてすぐには気づかず、数秒経ってから「今のはシャレだったのか」と戸惑うこともしばしばだったが、それが楽しかった。父の故・浅見国一元調教師は、武豊騎手が着るためのエアロフォームを日本で初めて採用したり、ゴム腹帯や、馬の当日輸送を当たり前のものにしたりと、さまざまな点で業界をリードした。その父から引き継いだメジロブライトで1998年の天皇賞・春を勝ってGI初制覇を遂げたほか、ヤマニンシュクルで2003年の阪神ジュベナイルフィリーズ、ソングオブウインドで2006年の菊花賞、レジネッタで2008年の桜花賞、レインボーラインで2018年の天皇賞・春を制した。

 レジネッタの桜花賞は、小牧太騎手にとってのJRA・GI初勝利であった。1週前にほぼ仕上げ、レース当該週は軽めにとどめる調教法で知られた。浅見師はまた、自ら攻め馬に乗る調教師としても知られ、ラストウィークとなった今週も馬に乗っている。門下から、白浜雄造騎手、千田輝彦調教師、田中健騎手、鮫島克駿騎手ら、数々のホースマンが羽ばたいている。

 堀井雅広調教師は、ユニオンオーナーズクラブの会報でインタビューしたときに聞いた、「一番獲りたいタイトルは朝日杯」という言葉が印象に残っている。騎手時代、中山の厩舎に所属しており、世代最初のGIでもあるから、取材時は中山で行われていた朝日杯に特別な思い入れがあったのだという。騎手時代は1番人気のカムイフジで7着に敗れた1989年に参戦しただけだったが、調教師として、2004年にマイネルレコルトで勝っている。

 柄崎孝調教師は、1989年の皐月賞馬ドクタースパートの管理者としておなじみだ。ドクタースパートは、地方の帯広のダート900mでデビューし、中央入りしてから芝1400mの京成杯3歳ステークス(旧馬齢)も、芝3600mのステイヤーズステークスも勝ったという、恐ろしく幅の広い能力を見せた馬だ。おそらく柄崎師は覚えていないと思うが、1990年代の初め、テレビ朝日の「プレステージ」という深夜番組に、ともにゲスト出演したことがあった。

 田中清隆調教師は、「ミスター競馬」野平祐二氏の弟弟子だった。シンコウウインディ、グルメフロンティア、レディパステル、ホエールキャプチャでGIを4勝。私は、グリーンチャンネルの番組などで、兄弟子の野平祐二氏について、何度か話を聞かせてもらった。「いつも祐二さんの家には、お客さんが10人ぐらいは来ていましたね」と、「野平サロン」と呼ばれた野平邸に集まった文化人とのやり取りなどについて、また、ミスターのすごさについて、懐かしそうに話しくれた。

 古賀史生調教師は、重賞10勝を含め、通算532勝をマークしている。弟子の伊藤工真騎手がデビューしたとき、中山競馬場の検量室前で(私としては1、2分のつもりで)簡単に話を聞かせほしいと頼んだら、20分ほども、じっくり話してくれて非常に助かった。元々は馬の臨床医になりたかったというが、熱い思いを持って日々取り組んでいることが伝わってくる人だった。

 高橋祥泰調教師は、騎手としても調教師としても日本で初めて500勝以上を挙げた、故・高橋英夫氏の次男である。1935年に初代ダービージョッキー・函館孫作の厩舎に弟子入りした英夫氏には、孫作について、最年少ダービージョッキーの前田長吉について、また、当サイトの外厩特集でも、昭和の初めの外厩について話を伺うなど、生き字引として、何度も力をお借りした。私が競馬史についてあれこれ書くことができるようになったのは、英夫氏と、1歳下で、日本にモンキー乗りをひろめた保田隆芳氏の謦咳に接したことが非常に大きい。

 私が2010年代に「週刊ギャロップ」に連載していた競馬歴史小説「虹の断片」にも、函館孫作の弟子として英夫氏が登場した。あの連載を高橋師はすべて読んでおり、「親父も出てきたね」と話していたと聞いて、非常に嬉しかった。

 高橋師は、タイキフォーチュンでのNHKマイルカップを含め重賞12勝、通算624勝を挙げている。英夫氏はダービーとオークス勝っているが、通算勝利数は520勝だから、高橋師は、偉大な父を上回ったのだ。岡部幸雄氏が騎手を引退するとき、最初に報告したのは高橋英夫氏だったという。私は英夫氏に、氏が生きた時代の競馬や、ほかのホースマンの話ばかり聞いてきた。が、これほどのホースマンなのだから、英夫氏自身のストーリーも、チャンスがあればまとめたいと思う。そのときは、高橋先生、ぜひお話を聞かせてください。

 さて、今週の月曜日、大手町の自衛隊大規模接種会場で、3回目のコロナワクチンを打ってきた。1、2回目がファイザーで、今回がモデルナという交互接種である。接種当日は、左腕を動かすと左肩の接種部位が痛む程度だったが、翌日の夕方から、悪寒、全身の筋肉痛、倦怠感、37度台の微熱が出たのでロキソニンを飲んだら、2、3時間でおさまった。副反応がゼロではないが、私の場合、それを理由に接種を回避するほどの辛さはなかった。

 その翌朝には完全復活し、本稿のつづきを書きはじめた。最近は「収束」という言葉を見る頻度も低くなってきたような気がするが、ともかく、辛抱して、できることを頑張りたい。

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作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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