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大怪我からの復帰直後に制した3度目のダービーと、藤沢和雄元調教師が何度も語る“豊君の凄さ”/第4回

  • 2022年08月14日(日) 18時00分
“ジョッキーズヒストリー"

▲タニノギムレットと制した、自身3度目の日本ダービー制覇(撮影:下野雄規)


今年ドウデュースで6度目のダービー制覇を果たし、自身の持つ最多勝記録を更新したレジェンド・武豊騎手。その歴史をご本人と親交の深いライターの平松さとし氏が、全12回にわたって振り返る「ジョッキーズヒストリー」第4回はタニノギムレットで制した3勝目のダービーです。

2002年2月、武豊騎手を襲った落馬のアクシデント。想像を絶する痛みと闘うなか支えてくれた、あるジョッキーの忘れられない行動や、藤沢和雄元調教師が武豊騎手の“凄さ”を語る際、何度も持ち出しているというエピソードをもとに3度目のダービー制覇を振り返ります。

(構成=平松さとし)

ただ事ではない大アクシデント「せめて5月末の日本ダービーには間に合って」


 2001年の夏、フランスで落馬をした武豊騎手。落ちてすぐに「凱旋門賞に間に合うように復帰出来るだろか?」と考えた、という話は前回記したが、その翌02年にも、同じようなシチュエーションに見舞われてしまう。

 02年2月24日、天才騎手は中山競馬場で騎乗していた。その第3レースでアクシデントが起きた。

「絶好の手応えで好勝負になると思った矢先、乗っていた馬が故障を発症したのですが、何の前兆もなかったため、いきなり馬場に叩きつけられてしまいました」

 したたかに腰を打ち付けた武豊騎手は、すぐに「ただ事ではない」と感じた。

「モノ凄い痛みがすぐに襲ってきたし、顔をあげたら他にも2人、転がっているのが見えました。『これは大変な事になった』と直感的に思いました」

 到着した担架には転がるようにして自分から乗った。人の手で触れられるのを拒むほど痛みが強烈だったからだ。

「医務室では『この後のレースに乗れそうですか?』と聞かれました。でも、この後どころかしばらく乗れないと分かっていたので、一刻も早く病院に連れていってほしいという気持ちでした」

 救護室から救急車、そして病院に着くと即刻入院が決まった。

「この間もずっと継続的な痛みが続いていたので、すごく長く感じられました。病院ではすぐに痛み止めの薬を飲み、注射も打ったけど、正直、全く効かないまま朝を迎えました」

 いつ終わるかとも知れない痛みが、いくらかやわらいだと感じられたのは落ちてから4日を過ぎた後だった。

「外傷はなかったけど、内出血がひどくて、その後も触れると痛みが走りました」

 冒頭に記したようにこれが2月下旬の話。武豊騎手はこの時点で3月末のドバイに関しては「無理だと覚悟を決めた」(本人)。

「最初の診断では『個人差はあるけど、完治まで3〜6カ月を要する』と言われました。せめて5月末の日本ダービーには間に合ってほしいと願いました」

 入院中には多くの騎手を始めとした仲間がお見舞いに来てくれた。中でも、当時、短期免許で日本に滞在していたオリビエ・ペリエ騎手の行動が忘れられないという。

「オリビエは『どうせ病院じゃ、やる事もなくて暇だろうからDVDを持って行くよ』と言ってくれました。DVDを持って来られてもプレイヤーもないし、見られないんだけど、むげに断るのも悪いと思ったので『ありがとう』って返事をしたら、お見舞い当日、

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1965年、東京都出身の競馬ジャーナリスト、ターフライター。国内だけでなく、海外での取材も精力的に行なっており、コラムの寄稿や多数の著書を出版するなど幅広く活動している。

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