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仕事が変わるということ

  • 2020年02月20日(木) 12時00分
 先週土曜日、小倉第5レースで落馬した藤田菜七子騎手の左鎖骨骨折が判明した。騎手がもっとも多く骨折するのは鎖骨だという。映像を見ると、前の馬と距離が詰まりすぎ、騎乗馬の前脚が、前の馬の後ろ脚にさらわれる格好になったことがわかる。馬がバランスを崩し、支えを失った藤田騎手は落馬した。

 以前、武豊騎手が話していたのだが、この間合いの見切りは、落ちて初めて身に沁みてわかるのだという。どんな一流騎手も同じ痛い目にあっている。

 藤田騎手は、上手く受け身を取りながら落ちたように見えたが、鎖骨というのは案外脆いものだ。それでも、一度折れたところは回復すると強くなる。いわゆる超回復だ。デビュー以来初めてのブランクとなり、サウジアラビア遠征をキャンセルすることになったのは悔しいだろう。が、違う視点から競馬を見られることを肯定的にとらえて、この休みを何らかの形で生かし、復帰したら、前以上に勢いのある騎乗を見せてほしい。

 私は今、札幌の生家にいる。すい臓がんを患い、膵尾部と脾臓を切除する手術を受けた父を退院させるために来た。無事退院した父は、でかい音でテレビを見て楽しそうにしている。ちなみに父は「要介護2」だ。

 私は雑音があると考え事ができないので、喫茶店やプレスルームなどで原稿を書くときは耳栓をしている。変形させられるシリコンとスポンジの二段構えだ。直木賞作家の山本文緒さんは、同じ家にほかの人がいると何も書けないと言っていた。そこまで行かずとも、私にも似たところがある。なので、私には、どんなところでも記事を書かなければならない新聞記者は絶対にできない(なってくれと言われたこともないが)。

 困るのは実家にいるときだ。1階の居間で父が大音量でテレビを見ている。2階にいる私の部屋のドアは閉めているのだが、居間の引き戸は開けっ放しにするのが習慣になっている。バラエティー番組でタレントの笑い声が聞こえたりすると逆上しそうになる。

「親父、うるさくて仕事ができないから、このドア閉めてもいいか」

「じゃあ、ドアを開けたままでも2階まで聞こえないよう、音を小さくしてくれ」

 父にそう言われ、音量を「15」まで下げた。

 2階に戻って仕事を再開すると、1時間も経たないうちにまた音がしてくる。

 下に降りてテレビの音量を確かめると「28」になっている。悪気はなくても、私に言われたことを忘れているのだ。

 このテレビは、私が快気祝いにと買った新しいものだ。父は「リモコンが使いづらい。前のほうがよかった」と、引っぱたきたくなるようなことを言っていた。が、こうしてしっかり音量を上げることができているではないか。

「なあ、親父。音が大きくても、この引き戸さえ閉めれば俺は仕事ができるんだ」

 ここを開けるようになったのは、洗面所まであたたかい空気が行って水道を凍結させないためだ。が、そんなことをしなくても水道は凍らない。いくらそう説明しても、習慣を変えるのは難しいようだ。閉めると狭苦しい感じがするのだという。

 仕方なく耳栓をして仕事をしているのだが、これだと、下で何かあっても気づかないし、私の耳も痛みで限界が近くなっている。

「なあ、親父さん。おれの仕事に協力するつもりで、ここを閉めてくれないか」

 そう言ったら、しぶしぶ頷いた。

 数時間後、「親父さんが協力してくれたおかげで、原稿が一本できたよ」と、嘘だったのだが、そう言った。すると、父は「そうか」と嬉しそうに笑っていた。

 普通はここで綺麗におさまるのだろうが、父の場合は少し経つとこのやり取りを忘れ、また引き戸を開けたがる。

 さて、ある程度の年齢になると、自分にも不具合が多くなるし、身内や知人の付き添いや見舞いなどで、病院に行くことが多くなる。

 看護師や介護士の仕事ぶりを見るたびに、私には絶対できないと感心させられる。また、ケアマネージャーが父と話すところを見るたびに、たいしたものだと思わされる。これも私にはできない。

 まあ、考えてみれば、私にできる仕事は文章を書くことぐらいしかないから、今こうしているのだった。

 四位洋文騎手が今月限りで引退し、調教師に転身する。若いころは感じなかったのだが、仕事を変えるとき、変えざるを得ないときにはどんな感情が渦巻くのだろう――今はついそう考えてしまう。29日に阪神競馬場で行われる引退式に行き、彼に会ってこようと思う。

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作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊競馬ブック、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。netkeiba.com初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリー『ダービーパラドックス』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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