大阪杯がG1に昇格したのは17年の第61回から。
キタサンブラックの勝利は記憶に新しい。春に2000メートルのG1を…という気運が盛り上がって生まれたものの、近年は
ドバイワールドカップデーと競合してメンバーが分散してしまいがち。レースの立ち位置も時代と共に変化するが、G1昇格前の
大阪杯がいかに「スーパーG2」だったかは、歴代の勝ち馬が物語る。
90年
スーパークリーク 92年
トウカイテイオー 93年
メジロマックイーン 07年
メイショウサムソン 08年
ダイワスカーレット 09年
ドリームジャーニー 13年
オルフェーヴル グレード制の導入以降、キャリアでG1を3勝以上した馬だけを抜粋してもこの名馬の数々だ。今回は、
大阪杯のG2初年度、
グレード制が導入された84年第28回
大阪杯を回想しよう。
◇ ◇ ◇
1番人気は
カツラギエース。前年にNHK杯、
京都新聞杯(いずれも当時芝2000メートル)を制しており、この距離ならと評価されていた。
「行く馬がいないのなら逃げてもいいと思っていた」と
カツラギエース鞍上の西浦勝一。スローペースで抑えては引っかかるタイプだったため、逃げも作戦の一つに入れつつ、実際に取った戦法は先行。
キントキタロー、
メジロプリンツが気合を入れて前に出てきたため、西浦
カツラギエースはこれ幸いとばかり行かせて好位を確保した。
キントキタローがハナを切っているが、後続の有力馬から見て主導権は
カツラギエース。この馬に好位で楽をさせてはならぬ…とばかり、3角過ぎで3番人気
スズカコバンが押し上げていく。鞍上の田島良保は「前が楽なのは分かっていたので、行くしかなかった」と早めの仕掛け。同厩舎の実力馬が動いたのを受けて、2番人気で当時のトップ牝馬
ロンググレイスも番手を上げていった。
それでも
カツラギエースは揺るがなかった。4角で
キントキタローをつかまえつつ、後ろの仕掛けを待つ余裕。
スズカコバンがつかまえに来ようとするところでスパート。西浦
カツラギエースは「後の先」の呼吸で後続を振り切って2馬身半差でゴール。2着争いは、同厩舎で鞍上も田島良保と田原成貴という兄弟弟子だった
スズカコバンと
ロンググレイスが激しい競り合いの末、
ロンググレイスが確保した。
前年の
菊花賞で21頭立て20着に敗れていた
カツラギエースは、当時の
大阪杯勝ち馬ならほぼ確実に向かった
天皇賞・春を自重。土門一美調教師は「春の目標は
宝塚記念」として、次のレースに5月G3
京阪杯(当時は京都2000メートル)を挟んで、
宝塚記念に向かった。
大阪杯から3連勝で、
宝塚記念でG1初制覇を果たす。これが秋の快挙――日本馬初の
ジャパンカップ制覇――へとつながっていった。
スポニチ