宝塚記念にはG1未勝利の馬が「悲願のG1初制覇」を成し遂げるイメージが、競馬ファンに広く流布していると思う。イメージの源泉は世代によって違い、最近なら
ミッキーロケット(18年)や
ラブリーデイ(15年)であり、もう少し前なら
ダンツフレーム(02年)や
メイショウドトウ(01年)であり、さらにさかのぼると
マーベラスサンデー(97年)だろう。
96年から99年まで、
宝塚記念は7月に行われた。97年7月6日の
宝塚記念は12頭立て。
武豊マーベラスサンデーVS
藤沢和雄厩舎のG1馬コンビ、
タイキブリザード&
バブルガムフェローという構図だった。1番人気は
マーベラスサンデーで単勝2・3倍。
タイキブリザードが3・1倍、
バブルガムフェローが3・5倍で続く。
マーベラスサンデーはデビュー前、3歳時に2度の骨折で出世が遅れたが、4歳5月から重賞4つを含む6連勝で一気に最前線へ。G1初挑戦の
天皇賞・秋が4着(勝ち馬
バブルガムフェロー)、続く
有馬記念が2着(勝ち馬
サクラローレル)。3強決戦がうたわれた翌97年の
天皇賞・春は
サクラローレルと激しく競り合っていたところ、
マヤノトップガンが捲り追い込みを決めて優勝。
マーベラスサンデーは
サクラローレルに競り負け3着だった。
この
宝塚記念は、
マヤノトップガンが秋に備えて休養に入り、
サクラローレルはフランス遠征を表明。
マーベラスサンデーにとって、何としても勝ちたいG1となった。
鞍上の
武豊は、
マーベラスサンデーのキャリアを通じて全レースで手綱を取った、まさしく主戦。同馬は
ディープインパクト以前の「豊の恋人」として屈指の存在。強さだけでなく全てを熟知していた。
「G1は4回目。同じ負け方をしたくなかったんです。冒険と言えば冒険ですが、我慢して内を回ればと思っていました」
マーベラスサンデーは早めに先頭に立つと気を抜いてしまう、いわゆるソラを使う癖があった。馬群の中で運んで、ぎりぎりに抜け出すのが
武豊の選んだ作戦。当時はこの週に仮柵が外され、内から5メートルほど馬場コンディションが良かったことも作戦の背景。
マーベラスサンデーは序盤、後ろから3番目。1、2コーナーでは手綱が動くシーンも。
武豊はレース後「泥をかぶって嫌気がさしたみたいで…」と説明したうえで「もともと覚悟していましたよ」と、手応えの悪さすら作戦の内だったという。
安田記念からのG1連勝を狙った
タイキブリザードが早めに先頭へ。
バブルガムフェローも早めに位置を押し上げていく。
武豊マーベラスサンデーは「残り800メートルでハミを取ってやる気を出してくれた」と、徐々に番手を上げつつ仕掛けのタイミングを測る。直線に入って、馬群を割る余地がないと見るやスッと外に持ち出して追い出す。追う者の強みで、
バブルガムフェローを首差捉えてG1初制覇を飾った。まさにレースプラン通りの内容だった。
大沢真調教師は「やっと勝てた。うれしいよ。これだよ、このレースをやってほしかったんだよ」と
武豊の騎乗を絶賛した。
番外のエピソードとして、
マーベラスサンデーにはレース前の大事なルーティンがあった。ゲート入り前の輪乗りの時、必ずお花摘みをする。レース後、
武豊はいたずらっぽく笑いながら「きょうは2回してましたね」と相棒の秘密を明かした。いつもより多くルーティンをこなした
マーベラスサンデーは、ついにG1を勝った。
スポニチ