▲ netkeiba Books+ から『スペシャルウィーク(下)』の1章、2章をお届けいたします。
通算4000勝をはじめとして、日本競馬界に燦然たる足跡を刻み続ける武豊騎手に、最初にダービージョッキーの称号を贈ったスペシャルウィーク。生後すぐに訪れた母との別れ、ダービー制覇までの道のり、エルコンドルパサーやグラスワンダー、セイウンスカイら同期との熾烈なライバル対決…。記録だけでは語れない“記憶に残る名馬”の生涯を辿る。 (文:木村俊太)
(写真:下野雄規、JRA、netkeiba)
1章 ライバルに完膚なきまでに打ちのめされた秋の陣
菊花賞前日の11月7日、京都競馬場第3レースの3歳新馬戦では、レース後、審議の青ランプが点灯していた。武豊騎手騎乗、1番人気のアドマイヤベガが鋭い末脚で1位入線を果たしていたが、直線で前が詰まった際、わずかに開いたインコースに進路を変えた。ここから一気に加速するのだが、そのときアクシデントが起こった。
わずかに開いたその同じ進路を目掛けて、さらに後ろから、高橋亮騎手騎乗のフロンタルアタックが突っ込んできていたのだ。フロンタルアタックはアドマイヤベガと接触し、ガクッと頭を下げた。アドマイヤベガはそれにひるむことなく、鋭い末脚を見せて前を差し切ったのだが、審議となり、武騎手は裁決室に呼ばれることになった。
裁決の結果、アドマイヤベガは4着に降着。武騎手は6日間の騎乗停止と決まった。6日間の騎乗停止とは、翌日の菊花賞には乗れるものの、次週からは3週間連続で騎乗できないということだ。エアグルーヴで騎乗予定だった翌週のエリザベス女王杯、マイルチャンピオンシップ、さらにはジャパンCにも騎乗できなくなってしまったのである。
武騎手はがっくりとうなだれた。まさかこの馬で翌年、ダービー連覇を果たすことになることなど、このときはまるで知る由もなかった。
この降着、騎乗停止を受けた武騎手に対して、「サイレンススズカの一件といい、災難続きだ」と噂する人もいた。「サイレンススズカの一件」とは、前週の天皇賞(秋)で圧倒的1番人気のサイレンススズカが故障を発生し、予後不良となってしまった一件である。
「お祓いでもしたほうがいいんじゃないか」などと真面目な顔で言い出す人までいたほど、武騎手にとっては災難が続いたのだった。それでも、翌日のスペシャルウィークの騎乗に支障がなかったのは、不幸中の幸いといえた。武騎手にとっても、気持ちを切り替えて、前を向いていくしかなかった。
その菊花賞。スペシャルウィークは、18頭立ての17番枠(最終的にはコマンドスズカが出走を取消し、17頭立て)。京都大賞典で、並み居る古馬を尻目に逃げ切り勝ちを収めたセイウンスカイは、2枠4番に入った。
「なんだか、皐月賞と似た枠順だなあ」
白井寿昭調教師は、冗談とも本気ともつかない口調でいったが、この予言めいた何気ない一言は、奇しくも現実のものとなってしまう。他馬を大きく引き離して逃げるセイウンスカイ。ここは皐月賞と違い、自らのペースでグイグイと加速しながら、逃げを打つ。後続を大きく引き離して3コーナーのカーブを迎える。セイウンスカイにとっては、皐月賞以上に理想的な展開だった。
これを追いかけるには、後続勢は早めに仕掛けなければならない。スペシャルウィークも上がっていく。
「あんなスピードで3000mを逃げ切れるはずがない。前の脚色が鈍れば差し切れる」
これが陣営の読みだったが、セイウンスカイは並みの逃げ馬ではなかった。ほとんど脚色が衰えない。スペシャルウィークも伸びてはいるが、前を走るエモシオンを差し切ったときには、3馬身半前でセイウンスカイがすでにゴールしていた。
掲示板には赤い「レコード」の文字が浮かび上がった。勝ちタイムは3分3秒2。コースレコードを0秒7縮め、菊花賞レコードに至っては1秒2も縮める、とてつもないレコード勝ちだった。
「確かに外目を回らされたこともありますが、スペシャルウィークも最後は伸びていますし、今日は勝った馬が強かったということです」
武騎手は完敗を認めるコメントを出した。白井調教師はすでに次を見据えていた。
「騎手は未定ですが、次はジャパンCに登録します」
白井調教師は常々、「世界のホースマンが認めてくれる日本のレースは、ダービーとジャパンC」と公言していた。そして、このふたつこそが、ぜひとも獲りたいタイトルであることも述べていた。
ジャパンCは騎乗停止になってしまった武騎手に代わり、鞍上には誰もが認める名手の岡部幸雄騎手が選ばれた。陣営は、岡部騎手の乗る馬が未定だとわかるとすぐに依頼をかけ、快諾を得ていた。ぜひともトップジョッキーに乗ってほしい、という臼田浩義オーナーの強い意向もあった。
ちなみにこのときまで、ダービー馬がその年の菊花賞を使って、ジャパンCに挑戦した例は、シンボリルドルフとウイニングチケットの2例。どちらも3着だった。外国馬の3歳が勝った例は2例あったが、日本の3歳馬が勝ったことはない。この当時はまだ、日本の3歳(当時の馬齢表記では4歳)馬にとって、ジャパンC挑戦は大いなるチャレンジだった。
ところが、である。なんと、このレースを勝ったのは、NHKマイルCを勝った3歳馬エルコンドルパサーだった。エアグルーヴは2着。スペシャルウィークは、過去の例と同じく3着だった。
クラシック戦線では3強(スペシャルウィーク、セイウンスカイ、キングヘイロー)などともてはやされていたが、外国産馬にはとんでもなく強い馬がいた(当時、クラシックは内国産馬のみ出走可能で、外国産馬には門戸が開かれていなかった)。
日本ダービーとジャパンCこそが、世界で認められる日本の競馬と考えていた白井調教師にとって、ダービー馬よりも強い同期がいたという事実は衝撃的だった。
―――ダービー馬は世代最強馬ではないのか。単なる内国産の最強馬にすぎないのか。
悔しさのなか、自問自答する時間が続いていった。
(2章につづく)
▲ 前走に続いてメジロブライトを撃破し1999年春の盾を制覇
第2章 名牝シラオキの血を紡いできた生まれ故郷を襲った悲劇
日高大洋牧場の小野田宏代表は、目の前に広がる炎を見ても、ただ立ちすくむだけだった。あり得ない光景、受け入れがたい現実を目の当たりにして、思考が完全にフリーズしたという表現が近いかもしれない。人間の脳には、あまりにも悲惨な、受け入れがたい事実の情報を遮断し、認識すること自体を拒否する機能があるらしい。
1998年12月15日未明、牧場の繁殖厩舎から出火したとみられる火災が発生。火はアッという間に燃え広がり、スタッフが駆けつけたときには厩全体がすでに炎に包まれていた。消防車が来るまでのあいだ、スタッフ総出で消火活動を行ったが、文字通り、焼け石に水だった。
「水だ。水を持ってこい。急げ」
スタッフの大声に、思考停止状態だった小野田代表もふと我に返った。
―――あり得ない。そんなことがあろうはずがない。厩舎が燃えるなんて。馬は…馬はどこにいるんだ。
馬はどこにもいなかった。
生産牧場にとって繁殖牝馬は大事な財産である。繁殖牝馬がいなかったら、馬の生産はできない。この目の前の繁殖厩舎では、20頭の繁殖牝馬が暮らしていた。そして、その繁殖厩舎は今、全体が炎に包まれている。そこで思考は停止した。次に導かれる論理的結論を、脳が拒否した。
繁殖牝馬の多くは、先代から引き継がれたものだった。小野田代表の父で前代表の小野田正治氏は、名牝シラオキの血統にこだわりがあった。
シラオキ自身は48戦9勝、牝馬ながらダービー2着という実績がある。ただ、名牝と呼ばれるようになるのは引退後、繁殖牝馬として産駒が好成績を残すようになってからである。2冠馬コダマ、皐月賞馬シンツバメなどを輩出し、さらには産駒の牝馬たちが多くの活躍馬を産んだことで、母の母としても優秀な成績を収めた。
1970年当時、生産牧場にとってシラオキの血統は喉から手が出るほどほしい牝系だった。どうしてもシラオキの牝系がほしかった先代は、シラオキの牝系としてはやや傍流といえるウインナーの仔タイヨウシラオキを購入した。ウインナーはシラオキの直仔だが、自身は未勝利。ウインナーの全姉でシラオキ系の本流ともいえるワカシラオキ(ウオッカの5代母)やヒンドスタン産駒のミスアシヤガワなどと比べるとやや格下という評価だった。
ところが、そのタイヨウシラオキがコーリンオーを産み、日高大洋牧場に重賞初勝利(スワンS)をもたらしたのだった。傍流がこんなにすごい馬を産んだのだから、本流に近いワカシラオキやミスアシヤガワなら、どんなにすごい馬を産んでくれるだろう。先代はシラオキの血統への思い入れをさらに強くしていった。
当時、ワカシラオキとミスアシヤガワは浦河町の鎌田牧場に繋養されていた。鎌田牧場はシラオキの繋養先でもあった。小野田正治先代代表は、鎌田牧場と懇意の仲だったこともあり、「どちらかの馬をなんとか売ってほしい」と頼み込んだが、いくら懇意の仲とはいえ、鎌田牧場にとっても大事な繁殖牝馬を、そう簡単に売ってくれるはずがない。とくにワカシラオキに関しては、けんもほろろといった様子だった。
それでも諦めきれない先代は、一世一代の賭けに出た。
「では、セントクレスピンをミスアシヤガワに無料で種付けさせましょう。牡馬が生まれたら、そのまま鎌田さんの所有に、もし牝馬が生まれたら私に売ってください」
小野田先代代表は、破格の値段で、鳴り物入りで輸入されてきた種牡馬セントクレスピンの種付け株を持っており、優先的に種付けをすることができた。その権利を鎌田牧場に無料で譲り、牡馬ならそのまま鎌田牧場のものに、牝馬ならさらに料金を払って自分が買い取るという条件を提案したのである。
これなら鎌田牧場にとっても、損なことはひとつもない。セントクレスピンの牡馬が無料で手に入るか、種付け料無料で生まれたセントクレスピンの牝馬がその場で売れるかのどちらかだからだ。この条件を鎌田牧場も了承した。
この賭けは小野田先代代表の勝利といえた。ミスアシヤガワは牝馬を産み、レディーシラオキと名付けられ、日高大洋牧場で繁殖牝馬となった。レディーシラオキはマルゼンスキーとの仔キャンペンガールを産み、キャンペンガールはサンデーサイレンスとの仔、スペシャルウィークを産むことになるのである。
キャンペンガールはスペシャルウィークを産む2年前に、オースミキャンディという牝馬を産んでいる。現役を引退し、レディーシラオキの血統を継ぐ繁殖牝馬となるべく、生まれ故郷の日高大洋牧場に戻っていた。その大事なシラオキの牝系の後継者となるはずだったオースミキャンディも、この繁殖厩舎にいたはずだった。
しかし、この火では助かった馬がいるとはとても思えなかった。
「おーい、あそこに馬がいるぞ」
ようやく火の勢いが弱まってきた頃、スタッフが馬を見つけて叫んだ。繁殖厩舎に繋がれていたメジロウェイデンという繁殖牝馬だった。火が厩舎全体に燃え広がる前に、何かの拍子で逃げ出すことができたのだろう。
「他にもいるかもしれないぞ」
それはむなしい期待だった。この繁殖厩舎にいた20頭の繁殖牝馬のうち、助かったのはただ1頭。残りの19頭は火事の犠牲になってしまった。オースミキャンディも助からなかった。
不幸中の幸いだったのは、別の厩舎にいた馬たちは無事だったことだ。そのなかには、レディーシラオキの仔ファーストラブがいた。ファーストラブはその後、サンデーサイレンスの仔サイレントラブという牝馬を産み、日高大洋牧場で繁殖牝馬として活躍している。
だが、このときの小野田代表には今後のことを考える余裕などなかった。前を向いて歩き出すには、もう少し時間が必要だった。
凱旋門賞でエルコンドルパサーを破ったモンジューを返り討ちにし、見事にジャパンCを制した
(続きは
『netkeiba Books+』 で)
- スペシャルウィーク(下) −不世出の天才に贈ったダービージョッキーの称号
- 第1章 ライバルに完膚なきまでに打ちのめされた秋の陣
- 第2章 名牝シラオキの血を紡いできた生まれ故郷を襲った悲劇
- 第3章 雨の中山で見せた貫禄、世界の名手も認めた底力
- 第4章 次々とライバルが立ちはだかった“最強”への道
- 第5章 調整に影を落とした猛暑による夏バテ
- 第6章 エルコンドルパサーの幻影を振り払う勝利、そしてラストランへ
- 第7章 種牡馬、そしてBMSとしてのライバル物語