▲ 1996年阪神大賞典の4コーナー
第5章 「再対決」へヒートアップする報道
年が明けて1996年、ナリタブライアンの大久保調教師は、前年と同様に阪神大賞典から始動すると明言した。前年はそこで圧勝後に股関節炎を発症し、それ以降、長いトンネルに入ってしまった。本当の目標はその先の天皇賞(春)だが、その前に、この暗闇を抜け出せるかどうかが阪神大賞典におけるナリタブライアンのテーマだった。
それに呼応するように、マヤノトップガンのローテーションも発表された。阪神大賞典または大阪杯から始動し、目標は天皇賞(春)。恐らく前者が有力とされ、つまり有馬記念に続き、この春もナリタブライアンと同じ道を歩むこととなったのだ。
そんな3月9日の「再対決」への興味は、もっぱらナリタブライアンの復活はあるのか、という視点から盛り上がりを増していった。2月に入り、両者が調教で時計を出し始めると、いよいよその一挙手一投足がスポーツ新聞で取り上げられるようになっていく。とくにナリタブライアンについては、武豊騎手の言葉がその報道のトーンを決めるような状態だった。
本来、ナリタブライアンの主戦を務めるはずの南井克巳騎手は、前年の10月に右くるぶしを骨折し、天皇賞(秋)は的場均騎手、ジャパンCと有馬記念は武豊騎手が騎乗していた。南井騎手の復帰は3月後半が予定されており、阪神大賞典は三たび武豊騎手が騎乗、ただし本番の天皇賞(春)では南井騎手に手綱を戻すということで、武豊騎手も了承していた。
レース2週前の追い切りでは、ナリタブライアンは切れ味鋭い動きを披露し、武豊騎手も「これでこそブライアンという手応え。良くなってきましたよ」と満足。「一度はブライアンで勝利を味わいたい」と、阪神大賞典へ向けて意欲を燃やしていることが伝えられた。
対するマヤノトップガンは、なかなか調教のペースが上がってこない。坂口調教師は、目標はあくまで先で、状態次第では始動を3週後の大阪杯まで遅らせることも匂わせていた。