▲西川敏弘騎手(写真手前中央)
「もう明日、騎手を辞めるって言いに行こうと思う」。まだ20代だった赤岡修次騎手が追い詰められた心中を打ち明けた相手は、仲間たちから慕われる先輩・西川敏弘騎手でした。毎晩、食卓を囲んでいた西川騎手は思わぬひと言を突き付けられ、「やめたらイカンぞ!」と必死に止めると、時には自身の騎乗馬が重なると赤岡騎手に回すなどサポート。さらに、騎手会長として騎乗手当を死守して若手たちの生活も守ってきました。
自身も通算3200勝以上を挙げるなど活躍しましたが、調教師試験に合格したのを機に先月末、騎手を引退。「高知の親分」と慕われた西川騎手はどんな存在だったのでしょうか。「ちょっと馬ニアックな世界」を覗いてみましょう。
「桂浜まで泳いだ馬がいた」そんな時代のジョッキー
西川敏弘騎手、52歳。1987年に騎手デビューしてから今年11月末日まで、高知競馬一筋に駆け抜けてきました。
地方通算3296勝。重賞はグランプリ・高知県知事賞で歴代最多タイの6勝を挙げるなど活躍しました。背中を丸めて全身を使ってダイナミックに追う姿が印象的で、ウォーターマーズという、なかなかやる気スイッチが入らずにスタートから追い通しという馬でも重賞を勝つほど腕っぷしのいいジョッキーでした。
その礎となったのは、重賞初制覇を飾ったブルラミーという馬。「ものすごく掛かる馬で、調教では死に物狂いで抑えながら毎日乗っていました。しかも、当時は今では考えられないくらいの距離を調教で乗っていました」かなりの体力がつき、スタミナの塊とさえ思える西川騎手の土台となったことでしょう。
一方で、当時は海岸近くに牧場などがあり、砂浜で調教も行われていました。それは今とは違う光景。
「浜へ預けちゅう馬を乗りに行っていて、人が見ゆう中、砂浜を走るのは面白いなと思いました。けど、海を嬉しがって飛び込む馬がおるきぃ、ちょっと怖かったです。桂浜まで泳いでいった馬もおったって聞いたことがあります。『え、馬って泳げるがや?』って聞いたら、『沈まんぞ』って調教師が話していました」
色々と規制が厳しくなった今ではあり得ない話ですが、昭和の時代、人と馬が近くで暮らしていたからこそのエピソードが当時は満載でした。
そんな西川騎手はレースでの活躍はもちろん、後輩たちの「親分」として高知競馬を支えてきました。その一つが冒頭に記した赤岡修次騎手とのエピソード。
赤岡騎手は若い頃から順調に勝ち星を積み重ねていましたが、ある日、落馬により膝の靭帯を断裂しました。医師からは「手術をして1年休むか、半年休んで筋肉をつけるか」と選択肢を出され、後者を選択したのですが、当時は「ちょっと無理してでも早く復帰しなさい」という風潮も色濃かったことでしょう。
「早く出てこい」という言葉に応えるように、まだ完治していない膝を抱えて復帰したのですが、以前のようにしっかり追うことができず、膝は脱臼癖がついてしまいました。
徐々に自暴自棄になっていった赤岡騎手は「もう騎手を辞めよう」と思い、地元の友人に「仕事を紹介してほしい」とまで声をかけていました。
そして、いよいよ明日、正式に引退の旨を所属調教師に申し出ようと思った夜。いつものように西川家で晩ご飯を囲みながら「西川さん、騎手を辞めようと思います」と伝えたところ、「辞めたらイカン!」と説得されました。
実はそれまで、西川騎手は面と向かって赤岡騎手を褒めることは少なかったようなのですが、「この子は上手い」と内心では才能を認めていました。
「馬に対する感性がすごく似ていて、僕の馬に乗ってもらう時も、馬の癖じゃなくて『この馬はこんな感じ』とだけ伝えると、ちゃんと乗ってきてくれました」
▲引退式で赤岡騎手から花束を渡される西川騎手(右)。「今の僕があるのは、西川騎手のおかげ」と赤岡騎手は話します。
何度も説得され、心を入れ替えた赤岡騎手はそれから調教やレースに対する取り組み方を何から何まで変えたといいます。また、西川騎手はレースで乗り馬が重なった時は可能な限り、赤岡騎手が乗れるように手を回してくれたといいます。
そうした甲斐があり、徐々に輝きを取り戻した赤岡騎手はいまでは押しも押されもせぬトップジョッキーとなり、高知競馬の顔となったのでした。
後輩へ「大事に思ってくれるファンに、恩返しできる騎乗を」
そしてもう一つの西川騎手の功績は騎手会長として仲間を守ったことでした。
当時をこう述懐します。
「昔は『経済が落ち込んだらギャンブルは増える』って言われていたけど、90年代後半からは日本全体の経済が落ち込んで、売り上げがどんどん減ってひどいことになりました。高知のジョッキーは乗っても乗っても手取りが20万円もないという時代でした」
中には10万円代のジョッキーもいて、もやしや納豆で食いつないだ人もいると聞きます。あるジョッキーは「後輩を見ていて、コンビニでバイトした方がいいんじゃないかと思うほどでした」とも言います。
騎乗馬は脚元など何かしら不安を抱えた馬。手取りは少なくとも、レースでは命を懸けていて、ジョッキーに誇りを持つ後輩たちを、西川騎手は放っておけませんでした。
起死回生の通年ナイター「夜さ恋ナイター」が始まるのと前後して騎手会長に就任すると、「これ以上、下げたらイカン」と、騎乗手当死守の交渉を行いました。
廃止寸前の競馬場にはジョッキーも少なく、当時はフルゲートとほぼ同数のジョッキーしか所属していなかったため、騎乗手当がある程度担保されれば、みなジョッキーとして食い繋げられると考えたのでした。
当時の高知競馬の人たちは相当大変だったのではないかと思うのですが、「みんなね、暗くなかったです」と西川騎手は笑います。
「高知人の気質なのか、『何か楽しいことを見つけよう』って感じで、集まって面白おかしく過ごしていました。その頃はお金がないから独身がすごく多くて、バーベキューとかお金がかからん遊びを見つけては楽しんでいました」
この精神には心底、驚かされますし尊敬をします。そして同時に騎手会長が説いていたのは「騎手会として要望したいことがあるき、絶対に悪いことをすなよ」ということ。
「こちらから何か主張をしようと思ったら、日頃から正しい行いをしていないといけないと思いました。『お前らはちゃんとしてるから、しゃーないな』と思ってもらえるように、と考えていました」
そうした努力の甲斐と、ファンからの支えがあって、高知競馬は劇的なV字回復を遂げたのでした。
そして、騎手会長の座は後輩に譲ったのですが、最近は「いつ調教師になろうかな」と引き際を考え始めていました。
「ごまかしながら乗るんじゃなくて、ちゃんと乗れなくなったら辞めたい」
そう考え始めていた頃、所属厩舎の大関吉明調教師が突然の他界。
「自分の中では迷っていましたが、今年はケガも多く、調教師になろうと決めました」と西川騎手は話します。
残念ながら11月6日の装鞍中に馬に蹴られ、肋骨を骨折したため引退レースは実現しませんでしたが、引退式に向かう道中、胸を張って同期の中西達也調教師(元騎手)と嬉勝則騎手、後輩の上田将司騎手を率いて歩く姿を見ると「西川騎手が高知の騎手たちを引っ張ってきた」と、高知競馬の関係者から幾度と聞いた言葉が頭に浮かんできました。
▲胸を張って先頭を歩く西川騎手。すぐ後ろの中西調教師、左2人の上田騎手と嬉騎手を率いているように見えました。
「ジョッキーとしてやれることはやってきたのかなと感じています。最近は後輩たちの成長を見るのが楽しみになりました。高知競馬はみんなに支えられて今があります。大事に思ってくれるファンへ、恩返しできる騎乗を後輩たちにはしてほしいと思います」
引退式の最後に高知競馬への思いで締めくくったことも西川騎手らしいと言えるかもしれません。
現在の高知競馬発展になくてはならない存在だった西川騎手は、これからは調教師として高知競馬を盛り上げてくれることでしょう。
▲西川敏弘騎手、35年間お疲れさまでした。後列は西川騎手の勝負服を着た嬉勝則騎手(左)と上田将司騎手。