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第3話 不思議な仔馬

  • 2012年06月18日(月) 18時00分
▼前回までのあらすじ
福島県南相馬市のサラブレッド生産牧場・杉下ファームは、2011年3月11日の東日本大震災で津波に襲われた。翌日、代表の杉下将馬は、津波にさらわれた「シロ」という愛称の繁殖牝馬を海辺で救い出した。牧場に戻ったシロは急に産気づいた。

『不思議な仔馬』

 壁も屋根もない馬房で横たわるシロを前に、将馬は動揺していた。乳の張り方や尻の形の変化などから、出産が近いことはわかっていた。しかし、牧場の施設がすべて津波に流され、何の準備もしていない今、急に産気づくとは思っていなかった。

「少し前からヤニがついていたようだな」

 と父が、シロの腹からトモにかけて、触診するように撫でた。

「ヤニ?」

「乳ヤニだ」

「そういえば……」

 おととい、飛節のあたりに黄色っぽい汚れのようなものがついていた。あれは乳汁が垂れたものだったのか。

 将馬は、小さいころから馬のお産に立ち会ってはいたが、仔馬をとり上げたことはなかった。「誰にも迷惑はかけない」と宣言してこの牧場を継いだのに、父に頼らなければお産ひとつまともにできそうにない。里帰りした同世代の友人たちは、親が小さくなっていて驚いたと口をそろえるが、将馬には、父の背中が以前よりさらに大きくなったように見えた。

 不意にシロが立ち上がった。そして、馬房の床に顔を近づけ、ぐるぐる回りはじめた。

「どうした、シロ」

 さっき拭いてやったばかりなのに、かなり汗をかいている。

 父がシロの尻を覗き込んだ。

「もうすぐ破水する。寝藁を敷いてやりたいところだが、今からもらいに行ったんじゃ間に合わないな」

 寝藁などの敷料はすべて流され、ここにはなかった。

「どうすれば……」

「このまま産ませるしかない。こいつが初産じゃないのがせめてもの救いだ」

 父はクルマからガムテープを持ってきて、シロの尾を束ねた。そして、タオルを数枚馬房の床に敷いた。

 シロが、何もできずに突っ立っている将馬に何かを訴えるかのように前ガキした。

「将馬、これを洗っておけ」

 父がどこからか流されてきた洗面器を差し出した。

「これを何に?」

「仔馬がすぐに立ち上がれなかった場合、初乳を飲ませるとき必要になる」

 将馬が洗った洗面器を手に馬房に戻ったとき、シロが破水し、体を横にした。

 父に手招きされ、シロの尻のほうに回り込んだ。驚いた。もう羊膜につつまれた仔馬の前脚の先が外に出ている。

 何度も寝返りを打つシロを見て、父が頷いた。

「やはりこいつは出産が上手だな。こうして仔馬の姿勢を安定させているんだ」

 前脚につづいて顔が出てきた。そして胸部、後肢の順で全身が娩出された。

 生まれてきたのは、牡の仔馬だった。

 タオルで仔馬の体を拭いながら毛色を見きわめようとした。鹿毛にも黒鹿毛にも見えるが、これまでシロが産んだのはすべて芦毛だったし、父のシルバーチャームも芦毛だから、かなりの確率で芦毛だろう。

 シロがまた寝返りを打ち、へその緒が切れた。

「初乳はいつやればいい?」

 将馬の問いに父が答えた。

「仔馬が立ち上がってから自分で飲むようにしてやれ」

 分娩から20分ほどで仔馬が立ち上がった。横になったままのシロの乳房に将馬が導いてやると、仔馬は初乳を飲んだ。ミルクというよりハチミツのようなそれは、確かに初乳だった。

「よし、これでお前は丈夫な仔になるぞ」

 父が笑顔を見せた。

「シロ、ご苦労さん。頑張ったな」

 シロが立ち上がっても大丈夫なよう、仔馬を少し離して声をかけたのだが、シロはお腹を波打たせるだけで起き上がろうとしない。

「綺麗な羊膜だったし、痛がっていないから合併症の心配はないはずだが……」

 と父が首をひねった。

「シロ、シロ……」

 将馬が首を抱え込んでゆすっても、シロは横になったままだ。呼吸が弱々しい。下が硬いところで寝返りを打ったせいで、背中のあちこちに血が滲んでいる。

「痛くないか?」

 と将馬が傷に手を当てたそのとき、海のほうから「ボン」と花火が上がったような音がした。

 シロが体をビクンと震わせ、横たわったまま仔馬のほうに首を伸ばした。

 仔馬は将馬とシロの顔を見比べるようにしてから、しっかりとした足取りで歩み寄り、シロの顔に鼻先を寄せた。そして、シロの乳を吸いかけたところで顔を上げ、今度は将馬の手の匂いを嗅いでから、静かに彼の目を見つめた。

 澄んだ瞳と真っ直ぐな鼻梁。利発そうな顔をしている。

 さっき生まれたばかりなのに、大人びた意志を持っているようにも感じさせる、不思議な雰囲気の仔馬だった。

 いつの間にか父の姿がなくなっている。

 将馬も厩舎を出た。

「シロが……」

 父の後ろに立ち、そう言いかけた将馬は、我が目を疑った。

 南の海岸沿いにある福島第一原子力発電所から白煙が上がっている。さっきの音は爆発音だったのか。「原発」「爆発」「白煙」という言葉が組み合わさることなどあってはならないはずだが、こうして重なってしまった。これは本当に現実なのだろうか――。

 気配に振り返ると、仔馬が厩舎の外に出て、こちらをじっと見つめていた。仔馬は将馬の横まで歩いてきて、海に顔を向けた。将馬が頭に手を乗せても身じろぎひとつせず、原発のほうを見つめている。仔馬のぬくもりを手のひらに感じながら、将馬はシロの死を悟った。(次回へつづく)

▼登場する人馬
杉下将馬…杉下ファーム代表。前年牧場を継いだばかりの23歳。
将馬の父…杉下ファームの先代。
ブライトストーン…芦毛の繁殖牝馬。愛称シロ。
当歳馬…シロの仔。牡。父シルバーチャーム。

※この作品には実在する競馬場名、種牡馬名などが登場しますが、フィクションです。予めご了承ください。
※netkeiba.com版バナーイラスト:霧島ちさ

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作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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