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第27話 三強

  • 2012年12月03日(月) 18時00分
▼前回までのあらすじ
福島県南相馬市の杉下ファームは、2011年3月11日の東日本大震災で津波に襲われた。代表の杉下将馬が救い出した牝馬は牧場に戻って牡の仔馬を産み、息絶えた。仔馬は「キズナ」と名付けられた。美浦の大迫調教師とともに訪ねてきた後藤田オーナーによって1億円で購入されたキズナは、かつての一流騎手・上川を鞍上に迎え、2歳のデビュー戦を勝った。次走の重賞で、超大物と言われるライバルに惜敗するも、2歳王者決定戦の朝日杯FSで雪辱を果たした。

『三強』

 ゴールをわかっているのか、キズナは入線後すぐに全身の力を抜き、ゆっくりと1コーナーに進入した。そして、鞍上の上川博貴からの「止まれ」の指示を待っている。

 ――よくやった。たいしたやつだ。

 キズナを止めかけたとき、すぐ外を三好晃一のマカナリーが駆け抜けて行った。三好はこちらを見ようともしなかった。

 キズナをターンさせ、スタンド前に戻った上川は目を見張った。

 2歳GIとは思えないほどムービーやスチールのカメラマンが多く、彼らの向こうのスタンドでは、10万を超える大観衆が波のようにうねっている。返し馬のときやレース中にこのスタンドの様子に気づかなかったということは、冷静なつもりでいた自分も、どこか舞い上がっていたのかもしれない。

 内海真子が、曳き手綱を持ってコース上に立っている。キズナを迎えにきたのだろうが、上を向いて口をあけ、子供のような泣き方をしている。

 スタンドからキズナコールでも起きるかと思っていたのだが、かすかなざわめきが聞こえるだけだった。

 5年前の上川なら、観衆の声援をあおるため、馬上で自分の耳に手を当ててコールを要求したところだ。

「ミキティ、帰ってきたぞ。馬はどこも傷めていないから、心配するな」

 と上川が真子に声をかけると、キズナが真子の胸のあたりまで顔を下げた。

「やったね、勝ったんだね……」

 と真子がキズナの顔に抱きついた。

「カシャカシャッ!」とシャッター音が響いた。

 詰めかけた10数万人も、こちらを見つめているのがわかった。が、相変わらずスタンドは静まり返っている。

 電光掲示板に「レコード」の文字が浮き上がっている。そのタイムが示しているように、2歳馬離れしたキズナのパフォーマンスに驚愕し、どう反応すべきかわからずにいるのだろうか。

 上川は、真子に言ったのと同じこと――キズナが無事に戻ってきた、ということを伝えるつもりで、スタンドに向かって鞭を持った右手を突き出した。

 その瞬間、凄まじい大歓声が中山競馬場全体を揺らした。

「1」と記された勝ち馬の枠馬にキズナを入れて下馬した上川に、大迫調教師が右手を差し出してきた。

「久々のGI勝ち、おめでとう」

 と微笑む大迫の手を握り返しながら、つくづくこの男らしいと思った。

「ありがとう」と言ってくれなかったおかげで、こちらも「ありがとう」とは言えなくなってしまった。

「テキこそ、初めてのGI勝ち、よかったじゃねえか」

 言いながら検量室に入り、モニターを見上げた。そこに映し出されるリプレイを見ながら大迫が訊いた。

「ゲートをゆっくり出してから内ラチぴったりのところまで行かなかったのは、ストライドを考えてのことか?」

「ああ。ここのマイルは綺麗なコーナーじゃなく、カクンカクンと曲がるようになっているからな」

「そうか。人間には厳しいが、馬には優しい上川博貴らしい騎乗だ。ストライドのロスがまったくない」

 普段は寡黙な男が、珍しく饒舌になっている。よく見ると頬が上気している。感情を隠そうとしてはいるが、やはりこの勝利に興奮しているようだ。あえて「ありがとう」と言わずにいるのは、礼を言うのはクラシックを勝ったとき、と決めているからだろうか。

 テレビの勝利騎手インタビューを済ませ、口取り撮影に向かった上川の足が、電光掲示板の着差を見た瞬間、止まった。

 マカナリーとの差は3馬身2分の1。5、6馬身は突き放したつもりでいたのだが、それしか差がついていなかったとは……。

 カメラマンから馬上で「まずはGIを1勝」という意味で人差し指を出してくれとリクエストされたが、聞こえないふりをした。

 ディープ産駒の成長力は、これまで嫌というほど見せつけられている。中山で行なわれる皐月賞はまだしも、広い東京の2400mが舞台のダービーでは、キズナの父シルバーチャームと距離適性の差が出て、力関係が逆転しないとも限らない。

 それにもう一頭、気になる馬が来週のラジオNIKKEI杯2歳ステークスに出てくる。その馬、ヴィルヌーヴもマカナリーと同じディープ産駒で、しかも鞍上は、通算1000勝などすべての最年少・最速記録を樹立し、GIを史上最多の60勝以上もしている武原豊和だ。

 上川にとって、これまでずっと目の上のたんこぶ、それもとてつもなくデカいたんこぶだった男である。進路にフタをしてやろうと思ったら、もうそこにはいなくなっているし、自分の馬を叩くふりをして手を叩いてやろうとしたら先に叩かれたりと、ただ上手いだけではなく、ポーカーフェイスの下に厳しさと激しさを隠し持った日本一の騎手だ。

「どうしたんですか、上川さん」

 撮影を終えて検量室前に戻りながら、生産者の杉下将馬に言われた。

「いや……なんだよ、お前は泣かないのか」

 言いながら、将馬に差し出された手を握ると、

「あの着差を見たら泣けません」

 と将馬は、横で涙をぬぐっている田島夏美に聞こえないよう小声で言い、苦笑した。

 ――こいつ、案外競馬をわかっているんだな。

 マカナリーの後ろは8馬身ちぎれている。

 来年、2014年のクラシックは、キズナとマカナリー、そして関西のヴィルヌーヴの三強による争いになると思われた。(次回へつづく)

▼登場する人馬
上川博貴……かつてのトップジョッキー。素行不良で知られる。
キズナ……震災翌日に生まれた芦毛の2歳牡馬。父シルバーチャーム。
マカナリー……翌年のクラシック候補と言われるディープ産駒。
三好晃一……マカナリーに乗る若手騎手。
大迫正和……キズナを管理する、美浦トレセンのカリスマ調教師。
杉下将馬…杉下ファーム代表。2010年に牧場を継いだ20代前半。
田島夏美…将馬の高校時代の先輩。馬を扱うNPO法人代表にして、由緒ある神社の禰宜。
内海真子……大迫厩舎調教助手。安藤美姫に似ている。

※この作品には実在する競馬場名、種牡馬名などが登場しますが、フィクションです。予めご了承ください。
※netkeiba.com版バナーイラスト:霧島ちさ

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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