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第4話 かつてのアイドル

  • 2012年06月25日(月) 18時00分
▼前回までのあらすじ
福島県南相馬市のサラブレッド生産牧場・杉下ファームは、2011年3月11日の東日本大震災で津波に襲われた。翌日、代表の杉下将馬は、津波にさらわれた「シロ」という愛称の繁殖牝馬を海辺で救い出した。牧場に戻ったシロは牡の仔馬を産んだ。その直後、福島第一原子力発電所事故が起きた。

『かつてのアイドル』

 余震がつづき、津波警報が解除されないなか、杉下ファームから10キロほど南の福島第一原子力発電所で爆発事故が起きた。

 ほぼときを同じくして仔馬を産んだシロが息絶えた。

「これからどうするつもりだ」

 シロを埋葬したあと、父が将馬に訊いた。

「……とにかく、こいつの居場所を確保しなきゃ」

 と将馬は仔馬の産毛のようなたてがみを撫でた。

「郷の連中に連絡してみるか」

 父は、相馬野馬追にともに出場してきた小高郷騎馬会の仲間と携帯電話で話しはじめた。細かい内容は聞こえないが、くぐもった声とため息から、かんばしい話でないことだけはわかる。

 将馬は、ありあわせのロープで仔馬の頭絡を編んでやった。それをピンと張るため耳の後ろやあごの下をさわっても、仔馬はおとなしくしている。

 ――お前は肝が据わっているな。

 原発の爆発音がしたときも動じなかったし、牧場の出入口付近を自衛隊や消防団のクルマが通っても、少し目で追うだけで平気な顔をしている。

「将馬、まずいことになった」

 父の声が震えていた。「イチエフの爆発で放射能が漏れたという情報があるらしい。早くここから離れたほうがいい」

「原発から放射能が……」

 絶対にあり得ないと言われつづけてきたことだが、生まれ育った街の惨状を目の当たりにすると、何が起きても不思議ではないように感じられた。

 ここから十数キロ北上し、市役所などのある中心部から山側に少し入ったところで野馬追用の厩舎を構えている父の知人がいる。そこに行けば馬房もあるし、馬用のミルクなどもあるという。

 それはいいとして、問題はどうやって仔馬をそこまで運ぶかだ。軽トラの荷台に乗せることもできなくはないが、将馬が一緒に荷台に乗って口を持つにしても不安定すぎる。

「おれ、こいつを曳いて歩いて行くよ」

「そうするしかなさそうだな」

 国道6号線、通称・水戸街道に出て驚いた。南の東京方面に向かう車線はトラックや自家用車で大渋滞になっている。それに対し、北の仙台方面に向かう反対車線は空いていた。

 将馬は北に向かって仔馬を曳いた。

 どのくらい歩いただろう、陽が落ちかけたころ、後ろからクラクションを鳴らされた。「フォーン」という、トラックなど大型車に特有の音だった。振り向くのも億劫だったので、さらに路肩の端に寄った。それでも執拗にクラクションを鳴らしてくるので、立ち止まってやりすごそうとしたら、そのトラックも停車した。

 運転席から人が降りてきた。意外なことに、将馬と同年代の女だった。

 女が野球帽を脱ぐと、長い髪がこぼれ落ちるように肩を隠した。吊り気味の大きな目に見覚えがあるような気がするが、いつどこで会ったのかは思い出せなかった。女が訊いた。

「どこまで行くの?」

「原町区の--」

 将馬が答えると、女が呆れたように笑った。

「あんなところまでその仔を曳いていく気?」

「……」

「乗っていきなさい。この馬運車は3頭積みで、もう3頭乗ってるんだけど、その仔なら大丈夫だから」

「馬運車?」

 よく見ると、コンテナの窓から馬の顔が覗いている。

 助手席に乗り込むと、足元に飼料の袋と、スイセンやデージー、ポピーなどをまとめた花束が置かれていた。

「生きている馬を見つけたら、水と飼料をあげているんだ」

「この花は?」

「間に合わなかったとき、手向けてあげるためのもの」

 ダッシュボードの上に「NPO法人 相馬ホースクラブ」とプリントされたリーフレットがある。話しているうちにわかってきたのだが、女は、津波に呑まれた馬たちを仲間とともに助け、自分が代表をつとめるNPO法人の厩舎で休ませているのだという。

「杉下君の仔馬も、うちで預かろうか」

 という女の言葉に驚いた。なぜ彼女は自分の名を知っているのだろうか。

「いや、でも親父が原町の厩舎に頼んでしまったから……」

 言いながら記憶を探った。が、手がかりが乏しすぎる。こちらもせめて相手の名を知らなくてはと、NPO法人のリーフレットにプリントされた代表者名を見た。

 田島夏美。たじま・なつみ。まさか……。

「原町の厩舎に乳母になる馬はいるの?」

「いや、いないと思います」

 彼女について思い出した。と同時に、息苦しいほどの緊張で、全身がじわっと汗ばんだ。

「うちにはサラブレッドを育てたことがある中間種が一頭いるんだ。なんなら私が原町に電話して話をつけようか」

「それは申し訳ないので、ぼくが電話して断ります」

 田島夏美は相双地区では知らぬ人のない神社の宮司の長女で、将馬と同じ高校で2学年上のアイドル的存在だった。白装束の似合う清楚な印象が強かったので、ここにいる快活な女性が、あの「夏美さま」だと今の今まで気づかなかった。

 将馬が先方に事情を話し、電話を切ると、夏美が小さく笑った。

「やっと私のことを思い出してくれたか。急にあらたまった話し方しちゃって」

「いや、その……すみません」

 どう言葉をつづけたらいいのかわからなくなり、窓をあけて風を入れた。いつの間にか月が出ている。

 海辺から離れたこのあたりは、ちゃんと信号が作動しているし、家々に明かりが灯っている。

「着いたよ。馬を厩に入れるの手伝って」

「はい」

 社(やしろ)の前に馬運車を停め、馬たちを降ろした。厩舎は社の右手の坂を上った高台にあり、人間だけなら社務所の裏庭から小道を通って行くこともできる。

 トタンとベニヤでつくられた、20ほどの馬房のある厩舎は清潔に保たれており、通路に筋状の箒目が残っている。

 乳母の向かいの馬房に仔馬を入れ、水に溶いたミルクを与えた。

「乳母から乳を飲ませるのは、夜が明けてからにしようね」

「わかりました」

「で、杉下君は今後の身の振り方、決めたの?」

「いえ……」

「仮にここで働いてもらうとなると、食事は私たちやボランティアの人たちと一緒だから心配ないけど、お給料と言えるほどのものは払えないかも」

 それでも、飯が食えて、寝るところがあるだけでありがたい。

「しばらく置いてもらえると助かります」

 将馬が言うと、夏美は仔馬の顔を引き寄せて微笑んだ。

「ここまで運転しながら思いついたんだけど、この仔には支援物資になってもらおうかな」

「支援物資?」

「そう、杉下君も一緒に」

「どういう意味ですか」(次回へつづく)

▼登場する人馬
杉下将馬…杉下ファーム代表。前年牧場を継いだばかりの23歳。
将馬の父…杉下ファームの先代。
ブライトストーン…芦毛の繁殖牝馬。愛称シロ。
当歳馬…シロの仔。牡。父シルバーチャーム。
田島夏美…将馬の高校時代の先輩。馬を扱うNPO法人代表にして、由緒ある神社の禰宜。

※この作品には実在する競馬場名、種牡馬名などが登場しますが、フィクションです。予めご了承ください。
※netkeiba.com版バナーイラスト:霧島ちさ

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作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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