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第5話 襲来

  • 2012年07月02日(月) 18時00分
▼前回までのあらすじ
杉下将馬が代表をつとめる福島県南相馬市の杉下ファームは、2011年3月11日の東日本大震災で津波に襲われた。将馬は津波にさらわれた「シロ」という愛称の繁殖牝馬を海辺で救い出した。牧場に戻ったシロは牡の仔馬を産み、息絶えた。直後、福島第一原子力発電所事故が起き、将馬は仔馬を連れて避難する。避難先は、高校の先輩の女性が継いだ神社にある厩舎だった。

『襲来』

 物音で目覚めたら、ボランティアのグループが登山でもするような重装備で広間から出て行くところだった。

 まだ夜が明け切っていない。午前5時を回ったところだった。この部屋では10人以上がざこ寝していたのだが、今残っているのは将馬を含めて数人だけだ。

 服のまま寝ていた将馬も、床から出て顔を洗い、指で歯を磨いた。

 厩舎へと歩きながら、夕べの夏美の言葉を反芻していた。

 ――この仔には、支援物資になってもらおうかな。

 どういうことかと訊いても、「そのうちわかるから」と艶然とはぐらかされた。

 頬をこする風が痛いほど冷たい。

 笛のような鳴き声はヒヨドリだろうか。こぼれ種で咲いたと思われるオキザリスの黄色い花が、うつむくように揺れている。鳥のさえずりが聞こえ、小さな花があるというだけで、津波に呑まれた自分の牧場に比べ、ずいぶん賑やかに感じられる。

 突如、ドーンと馬が馬房の壁を蹴る音がした。様子を見に行くと、中間種の乳母の馬房に入った夏美が、将馬の仔馬を抱えるように馬房の外に出しているところだった。乳母は目を剥いて仔馬に噛みつこうとしている。壁を蹴ったのはこの馬のようだ。

「大丈夫ですか」

「ええ、ごめんなさい。乳母が乳をやるのを嫌がって、杉下君の仔馬、危うく蹴られるところだった」

 と夏美は、乳母の馬房の床から寝藁と馬糞をとり、それを仔馬の体にこすりつけた。

「何を……?」

「こうして自分の匂いがついた仔馬なら受け入れることがよくあるの」

 彼女に替わって、将馬が仔馬に匂いをつける作業をつづけた。母のシロもそうだったが、相変わらずおとなしい。人間を信頼するのはいいが、警戒心がなさすぎるのではと心配になるほどだ。

 将馬に体のどこをさわられても嫌がらず、じっとしている。しかし、だからといって顔を寄せてきたりと甘えてくることもない。

 ひょっとしたら、人間に頼り切っているというより、生きるためにはいろいろなことを我慢しなければならない、と本能的に理解しているのかもしれない。乳母に拒絶されて、この小さな胸が本当は傷ついているのではないか。

 目の周りの毛が少し白っぽくなっている。今は鹿毛のように見えるが、間違いなくこの馬は両親と同じ芦毛である。

 驚いたことに、乳母が厩栓棒の隙間から鼻先を出して、仔馬を気にしている。先刻までとは別の馬のように優しい目をしている。

「もう大丈夫でしょう。入れてみて」

 夏美の言葉に従い、仔馬を乳母の厩舎に入れた。乳母が仔馬の首筋に鼻を寄せ、しばらくじっとしていると、仔馬が遠慮がちに乳母の腹の下に顔を入れた。ようやく授乳に成功した。

 それを見届けた将馬は、夏美たちが救い出した馬を見て回った。何度確かめても、将馬の牧場にいた、シロ以外の2頭はいなかった。

 朝は厩舎作業、昼は夏美たちと馬運車で海辺で被災馬を救い出し、夕方は炊き出しの手伝いをする――という日々が始まった。夕方の厩舎作業は、ここを拠点とするNPO法人のスタッフやボランティアがやってくれるので、将馬は炊き出しを終えたあと、放牧地で仔馬と一緒にいることができた。

 1週間ぐらいでずいぶん見た目が変わり、体が大きくなるにつれ、全身がグレーブラウンとでも言うべき色になってきた。

 しかし、気がかりなこともあった。

 ほかに当歳馬がいないせいもあるのだろうが、普通なら飛び跳ねたり駆け出したりする時期なのに、この仔馬は同じ放牧地にいる10歳以上の馬たちと同じようにゆっくり歩いたり、横になったりするだけなのだ。

 ――競走馬に必要なバネや活力、闘争心なんかは、あまりない馬なのかな。

 4月になった。海辺から助け出した馬たちの大半が毎年相馬野馬追に出場している馬だった。個々の特徴を覚えている獣医師や装蹄師に協力してもらいながら馬の「身元」を割り出し、飼い主に引き渡すようにしたのだが、飼い主が被災して受けとれない馬は、引きつづき境内の厩舎で預かることになった。20ほどの馬房は一杯で、それらにカイバをつけたり運動させたりする作業は大変だったし、それ以上に、夏美が飼料代や薬代を工面するのに苦労しているのがわかった。

 そんなある日、運動場を兼ねた放牧地に10頭ほどの馬を放した午後のことだった。

 地元のテレビ局と新聞社が取材に来ていたので、将馬は夏美に呼ばれ、放牧地の出入口で馬たちの様子を眺めていた。

 レポーターが夏美にインタビューしているとき、馬たちが急に騒ぎだした。

 放牧地に大きなイノシシが迷い込んできたのだ。

「杉下君、仔馬を外に出して。イノシシを刺激しないように、そっと」

 夏美に言われ、出入口の鉄棒を外そうとしたが、音を立てないようにしようとする引っ掛かって、なかなかあかない。

 放牧地の奥にいるイノシシが動きを止め、こちらをうかがっている。

 一頭の馬が大きくいなないた。

 仔馬の乳母だった。数十メートル離れたところにいるイノシシの体が、乳母と仔馬に向けられた。

 将馬は曳き手綱を手に放牧地に入り、乳母の頭絡につないだ。が、仔馬には頭絡をつけていないので、曳き手綱をつなぐことができない。また乳母がいなないた。

「さ、行くぞ。チビも来い!」

 乳母はパニックに陥っており、何度も尻っ跳ねをしたり、後ろ脚で立ち上がろうとする。それを攻撃と勘違いしたのか、イノシシがこちらに向かって突進してきた。

 いつの間にか横にいた夏美が、曳き手綱で乳母の尻をひっぱたいた。

 乳母が出入口に向かって歩きだした。しかし、仔馬は、くるりと体を反転させ、放牧地の奥へと駆けだした。

 走りながら何度もジャンプし、まるでイノシシを挑発しているかのようだった。

 イノシシが標的を仔馬に替え、土煙を挙げて向かって行った。(次回へつづく)

▼登場する人馬
杉下将馬…杉下ファーム代表。前年牧場を継いだばかりの23歳。
田島夏美…将馬の高校時代の先輩。馬を扱うNPO法人代表にして、由緒ある神社の禰宜。
当歳馬…芦毛の牡。父シルバーチャーム。
ブライトストーン…芦毛の繁殖牝馬。愛称シロ。

※この作品には実在する競馬場名、種牡馬名などが登場しますが、フィクションです。予めご了承ください。
※netkeiba.com版バナーイラスト:霧島ちさ

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作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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