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第7話 一本の電話

  • 2012年07月16日(月) 18時00分
▼前回までのあらすじ
福島県南相馬市の小規模牧場・杉下ファームは、2011年3月11日の東日本大震災で津波に襲われた。代表の杉下将馬が救い出した「シロ」という愛称の繁殖牝馬は、牧場に戻って牡の仔馬を産み、息絶えた。直後に原発事故が起きたため、将馬は知人女性が禰宜をつとめる、馬のいる神社に避難した。境内の厩舎で乳母と暮らすようになった仔馬は「キズナ」と名付けられた。

『一本の電話』

「もう少しお馬さんの近くに立ってくれるかなあ? そうそう、いいよー。ハイ、いちたすいちは?」
「にー!」

 と子どもたちが声を出したところで、将馬はシャッターを押す。

 将馬とキズナは、相馬市内の神社を拠点とするNPO法人「相馬ホースクラブ」で、夏美が言うところの「支援物資」として働くようになっていた。普通、支援物資というと、ミネラルウォーターや食料、暖房器具、燃料などだが、「被災地の需要に応え、人々の日常を支える」という意味では、将馬とキズナも同じだった。

 震災の影響で入学や進学、また子供の日などの記念撮影をできなかった子供たちのために、格安で撮影を請け負い、売上げを馬の飼料代や薬代などにあてるようになったのだ。

 相馬野馬追の飾りをつけたキズナが、子供たちと一緒に写るモデルとなり、将馬がカメラマンを担当した。この仕事のおかげで、人前で話すことが苦手だった将馬も、ずいぶん「場馴れ」した。

 クチコミで評判がひろがり、将馬とキズナは馬運車で出張撮影に行くことも多くなった。その様子がマスコミで紹介され、日本中からキズナ宛てに手紙や馬服、ぬいぐるみ、ニンジン、義援金などが続々と送られてきた。

 そんなある日、夏美が、白い犬にもネズミにも見える動物のイラストがたくさん描かれたファイルを手に、切り出した。

「T社から、キズナのキャラクターグッズをつくりたいという申し出があったの」

 T社は国内随一の玩具メーカーだった。

 だが、このイラストをキズナとして売り出すのは抵抗があった。イラストが気に食わないわけではなく、今も日々体が大きくなっているキズナは、もうすぐこの絵とは似ても似つかない姿になる。それに、キズナはサラブレッドだ。オグリキャップやディープインパクトのように、競走馬として人気者になってからグッズを出すべきだと思った。

 また、将馬個人の懐は、「キズナ人気」によってまったく潤っていないのだが、このところ、神社に出入りする人に「稼いでるねえ」と皮肉っぽく言われることが多くなった。さらにグッズでも売り出そうものなら、何を言われるかわかったものではない。

「その話はお断りします――」

 理由を話すと、夏美も納得してくれた。

「しょうがないよね。で、杉下君とこの仔は、いつまでここにいてくれるの?」

 ちょうどそれを夏美に相談しようと思っていたところだった。

「最初は、1歳になる来年、夏ごろに鞍つけ馴致をするまでと思っていたのですが、離乳したらすぐ、大きな牧場のイヤリングに預けようかな、と」

「ここでも馴致はできるわよ」

「でも、やはり競走馬になるなら、イヤリング施設で同い年の馬たちと走り回ったり、ケンカして上下の序列があることを学ばさせたりしたほうがいいと思うんです」

「そっかあ。じゃあ、もうすぐお別れだね」

「はい、おそらく……」

 将馬は、キズナの立ち姿を左横から見た、カタログや成長記録などに使えるカットも定期的に撮るようになっていた。先日、それらをファイルに入れ、茨城県の美浦トレーニングセンターで厩舎を構える3人の調教師に郵送しておいた。ひとりは管理馬でGIをいくつも勝っている50代のリーディングトレーナー、もうひとりは、まだGIを勝ってはいないが、驚異的な勝率で勝ち鞍を重ねている40代の理論派調教師、そしてもうひとりは、シルバーチャーム産駒を数頭管理したことがある若手調教師だった。

 これだけメディアに出ても、キズナを買いたいと申し出てくれる馬主はいなかった。来年夏の八戸市場に出すまで無理してイヤリングの預託料を払いつづけることも考えたが、それより、まずキズナを預かってくれる調教師を見つけ、その調教師に馬主を紹介してもらうほうが得策だと思った。

 しかし、3人の調教師とは面識がなく、「美浦トレーニングセンター・○○厩舎御中」と表書きをして送っただけなので、ちゃんと写真と手紙を見てくれたかどうかもわからなかった。

 翌日、社務所にいた夏美に呼び出された。

「美浦の大迫さんという人から電話。ねえ、まさか、あの大迫調教師?」

 送話口を手で押さえて怪訝そうに言う夏美から、奪うように受話器をとった。

「お電話替わりました、杉下です」

「ああ、もしもし――」

 少しかすれた声は、何度も勝利調教師インタビューで聞いた、あの声に相違なかった。(次回へつづく)

▼登場する人馬
杉下将馬…杉下ファーム代表。前年牧場を継いだ23歳。
田島夏美…将馬の高校時代の先輩。馬を扱うNPO法人代表にして、由緒ある神社の禰宜。
キズナ……震災翌日に生まれた芦毛の当歳牡馬。父シルバーチャーム。
ブライトストーン…キズナの母。愛称シロ。
大迫……美浦トレセンの調教師。

※この作品には実在する競馬場名、種牡馬名などが登場しますが、フィクションです。予めご了承ください。
※netkeiba.com版バナーイラスト:霧島ちさ

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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