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第8話 カリスマ調教師

  • 2012年07月23日(月) 18時00分
▼前回までのあらすじ
福島県南相馬市の小規模牧場・杉下ファームは、2011年3月11日の東日本大震災で津波に襲われた。代表の杉下将馬が救い出した「シロ」という愛称の繁殖牝馬は、牧場に戻って牡の仔馬を産み、息絶えた。直後に原発事故が起きたため、将馬は知人女性が禰宜をつとめる、馬のいる神社に避難した。境内の厩舎で乳母と暮らすようになった仔馬は「キズナ」と名付けられた。ある日、将馬がキズナの写真を送っておいた美浦の大迫調教師から電話があった。

『カリスマ調教師』

 電話を切ってしばらたく経っても、将馬の興奮はおさまらなかった。

 重賞の勝利調教師インタビューでも笑顔を見せることはなく、喜んでいるのかどうかわからないほど抑揚のない話し方は、電話でもそのままだった。

 大迫正和、42歳。美浦トレーニングセンターに厩舎を構えて6年目になる。管理馬によるGI勝ちこそないが、驚異的な勝率で勝ち鞍を重ね、「東のカリスマ」と呼ばれる調教師である。

 キズナの写真を送った3人の調教師のうち、最も返信してくる可能性が低いと予想していたのが彼だった。50代のリーディングトレーナーは白毛馬など話題性のある馬を預かることが多く、30代の若手トレーナーはキズナと同じシルバーチャーム産駒を管理しているので、連絡があるとしたらこのふたりのどちらかだろうと思っていた。

 大迫は、あえて馬房数プラス10頭程度の少なめの管理馬しか預かろうとせず、日本の競馬界を席巻する大生産者グループから送られてきた馬を、イメージしていた馬体になっていないからとすぐ送り返したりと、気難しいところのある調教師だという噂があった。

 その彼が、1週間後、福島や宮城の民間トレーニングセンターを訪ねた帰路、キズナを見に来るという。

 翌週、キズナが道の駅の一日駅長をするというNPO法人の仕事を終え、神社に戻った将馬は唖然とした。駐車場には高級外車やテレビ局、新聞社のクルマがびっしり停められ、厩舎の周りは報道陣と見物人でごった返している。

 将馬がキズナを曳いて厩舎に近づくと、ムービーとスチールカメラが一斉に向けられ、ライトとフラッシュで目が眩んだ。

 ――まったく、夏美さんは何を考えているんだ。

 彼らを集めたのは夏美だろうから抗議しようと厩舎に入ると、なんと、夏美の横に大迫の姿があった。

 ――あれ、大迫先生が来るのは明日だったはずじゃ……。

 将馬が立ちすくんでいると、大迫が歩み寄ってきた。

「杉下君だね、大迫です」

「はい、どうも……」

「キズナを少し借りるよ」

 と大迫は将馬から曳き手綱を受けとり、厩舎の外に出かけたところで引き返してきた。

 曳き手綱を差し出す大迫に、将馬が、

「もういいんですか?」

 と訊くと、彼は、

「うん、よくわかった」

 とキズナの首差しや背中、トモを撫でながら、

「思っていたとおりの馬だ」

 と表情を変えずに言った。

 そこに、「いやあ、暑うてかなんなあ」と大声の関西弁で話しながら、恰幅のいい50がらみのスーツを着た男が入ってきた。放射線量計測器を持って後ろに控えている男女は秘書だろうか。

「大迫君、あんたが見せたい言うとった当歳はどれや?」

「この芦毛です」

「血統は?」

 というやりとりに、将馬は自分の目と耳を疑った。この関西弁の主は、所有馬でGIをいくつも勝っている大馬主の後藤田幸介だ。大阪で建設会社やビル管理会社などを経営し、馬好きが高じて日高の生産牧場を購入し、鳥取に自身の所有馬専用の外厩をつくったことでも知られている。

「6年間保留になっていた後藤田会長から私への開業祝い、この馬にしてください」

「ほう」

 と後藤田は、キズナの横に立って馬体を吟味しはじめた。ムービーとスチールのカメラが、ずっとこのふたりを追っている。

「放射能汚染の風評を怖がるような馬主では話にならないので、会長にお願いしました」

 大迫がそう言うと、後藤田の秘書は線量計を体の後ろに隠すようにした。

「わしかて少しは馬を見る目はあるつもりやが、ホワイトストーンの肌にシルバーチャームで、この貧相な馬体。気鋭のトレーナーがわざわざ勧める理由がわからんなあ」

「お気に召さないようでしたら、ほかの方に声をかけます。例えば……」

 大迫の言葉を後藤田がさえぎった。

「それ以上言わんでもええ。よっしゃ、買うたるわ。いくらや?」

 周りにいる者たちがつばを飲みこむ音まで聞こえそうなほど静まり返った。

 シルバーチャームの種付料が10万円。それにこれまで要した経費と将馬の利益ぶん、さらに大迫への開業祝いぶんのプラスアルファを考慮しても500万円がいいところだろう。

「1億円でどうですか」

 という大迫の言葉に周囲がざわめいた。将馬は脇の下に嫌な汗が流れるのを感じた。

 大迫を睨みつける後藤田のこめかみに血管が浮き出てきた。

「1億やとォ!? 大迫君、あんた、わしを舐めとんのか」(次回へつづく)

▼登場する人馬
杉下将馬…杉下ファーム代表。前年牧場を継いだ23歳。
田島夏美…将馬の高校時代の先輩。馬を扱うNPO法人代表にして、由緒ある神社の禰宜。
キズナ……震災翌日に生まれた芦毛の当歳牡馬。父シルバーチャーム。
ブライトストーン…キズナの母。愛称シロ。父ホワイトストーン。
大迫正和……美浦トレセンのカリスマ調教師。
後藤田幸介……大阪を拠点とする大馬主。

※この作品には実在する競馬場名、種牡馬名などが登場しますが、フィクションです。予めご了承ください。
※netkeiba.com版バナーイラスト:霧島ちさ

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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