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第9話 オーナーとの縁

  • 2012年07月30日(月) 18時00分
▼前回までのあらすじ
福島県南相馬市の小規模牧場・杉下ファームは、2011年3月11日の東日本大震災で津波に襲われた。代表の杉下将馬が救い出した「シロ」という愛称の繁殖牝馬は、牧場に戻って牡の仔馬を産み、息絶えた。直後に原発事故が起きたため、将馬は知人女性が禰宜をつとめる、馬のいる神社に避難した。仔馬は「キズナ」と名付けられた。7月のある日、将馬がキズナの写真を送っておいた美浦の大迫調教師が、馬主の後藤田と一緒にキズナを見に来た。

『オーナーとの縁』

「わしが直近で1億以上出した馬は、GI4勝馬の半弟やで」

 射抜くように大迫を睨みつけていた後藤田の目が、将馬に向けられた。

「そこの男前。あんたが生産者やな。この当歳の母馬の競走成績は?」

「未出走です」

「きょうだいで活躍馬は?」

「地方の重賞で入着した馬が1頭いるだけで、特に……」

「さよか。その血統に1億出せと天下の大迫調教師が勧めるいうことは、それだけのものを感じとるわけやな」

 後藤田の問いかけに大迫が答えた。

「今、杉下君が言った内容を差し引いて、1億ぐらいが適性価格かと。もしセリに出て、藤川先生あたりと競り合ったらもっと高くなると思います」

 藤川というのは、将馬がキズナの写真を送った、美浦のトップトレーナーである。

「父のシルバーチャームはよう知っとる。何せ、あの馬が勝ったケンタッキーダービーを見に行っとったんやから。マイ・オールド・ケンタッキーホームの調べを……あっ!」

「思い出されましたか。調教助手時代、私が会長に初めてご挨拶させていただいたのが、あのケンタッキーダービーが行われたチャーチルダウンズ競馬場だったんです」

 シルバーチャームがアメリカのクラシック二冠を制したのは1998年のことだった。翌年のドバイワールドカップも勝ったこの馬は、ビッグレースを僅差で勝つ勝負強さを絶賛された。

 大迫が言葉をつづけた。

「いつかシルバーチャームのような馬を扱ってみたいと思っていました。種牡馬としての成績が今ひとつだったので、余計にその気持ちが強くなっていたところに--」

 と大迫は、将馬の横に立つキズナに歩み寄り、正面から両手で顔をはさんで揺すり、首筋をポンと叩いた。

「シルバーチャームの生き写しが現れた。それに会長、顔を揺すろうが叩こうが動じない、こんな当歳見たことあります?」

「いや、確かに、犬みたいな馬やな」

「離乳は済んでいるのかな?」

 と大迫に訊かれ、将馬が答えた。

「まだですが、こうして1頭で連れ出しても大丈夫なので、いつでもできます」

「いかがです、会長?」

 と言う大迫に、後藤田が頷いた。

「よっしゃー、決まりや。きょうは500万しか持っとらんので即金いうわけにはいかんが、明日にでも1億、振り込んだるわ」

「ありがとうございます。中間馴致のスケジュールなどは--」

「好きにせい」

 と後藤田は、秘書やマスコミ関係者を引き連れて帰って行った。

 大迫が将馬に言った。

「勝手に売買契約を進めてしまってマズかったかな?」

「いえ、そんな……」

 思ってもみなかった額である。1億という金など手にしたことがないので具体的に何ができるのかイメージできないが、これで牧場を再建させられるメドがついたように思った。

「後藤田会長の所有馬になれば、日本トップクラスの環境でイヤリングや馴致、外厩でのケアなどができる」

「じゃあ、イヤリングは北海道で?」

「そうなるだろう」

「キズナは、名前のとおり、後藤田会長と私との結びつきを確かめる働きをしてくれた。シルバーチャームの代表産駒になってもらわないとね」

 そのとき将馬は初めて大迫の笑顔を見たように思ったが、気のせいだったのか、普段の仏頂面に戻っていた。

「大迫先生、キズナはいつイヤリングに行くんでしょうか」

「来月、8月の終わりごろかな。今月持って行ってもいいんだが、こちらでは相馬野馬追があるんだろう?」と大迫は夏美を見やった。

「はい、縮小開催という形で7月の23日から25日まで行われるのですが、もう後藤田オーナーの所有馬ですから……」

 と夏美が口ごもった。

「許可は私がとっておきますから、キズナに、この仔にしかできない仕事をやらせてあげてください」

 ふたりの言葉を聞きながら、将馬は一流調教師と大物馬主に接するという夢のような時間から現実に引き戻され、寂しさに胸が押しつぶされそうになっているのを感じた。

 キズナがイヤリングに行けば、ともに過ごしてきた時間が終わってしまうのだ。(次回へつづく)

▼登場する人馬
杉下将馬…杉下ファーム代表。前年牧場を継いだ23歳。
田島夏美…将馬の高校時代の先輩。馬を扱うNPO法人代表にして、由緒ある神社の禰宜。
キズナ……震災翌日に生まれた芦毛の当歳牡馬。父シルバーチャーム。
ブライトストーン…キズナの母。愛称シロ。父ホワイトストーン。
大迫正和……美浦トレセンのカリスマ調教師。
後藤田幸介……大阪を拠点とする大馬主。

※この作品には実在する競馬場名、種牡馬名などが登場しますが、フィクションです。予めご了承ください。
※netkeiba.com版バナーイラスト:霧島ちさ

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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