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第10話 旅立ち

  • 2012年08月06日(月) 18時00分
▼前回までのあらすじ
福島県南相馬市の小規模牧場・杉下ファームは、2011年3月11日の東日本大震災で津波に襲われた。代表の杉下将馬が救い出した「シロ」という愛称の繁殖牝馬は牧場に戻って牡の仔馬を産み、息絶えた。直後に原発事故が起きたため、将馬は仔馬を連れ、相馬の神社に避難した。仔馬は「キズナ」と名付けられた。7月のある日、美浦の大迫調教師が、馬主の後藤田と一緒にキズナを見に来た。キズナは後藤田に1億円の高値で購入された。

『旅立ち』

 2011年の相馬野馬追は、呼び物の甲冑競馬や神旗争奪戦などを行わず、騎馬武者行列の数も例年の6分の1ほどにする縮小開催として実施された。初日の7月23日、出陣式のあと、80騎ほどの騎馬武者が相馬と南相馬の街を練り歩いた。飢饉のときも戦時中も途切れることのなかった千年以上の伝統がつながれた意義を、将馬は、神馬として行列に加わったキズナを曳きながら感じていた。

 この地で生まれ育ったことの誇りが自身のなかに強く根を張っているのを確かめながら、横にいるキズナも同じことを感じているような気がしてきた。

 胴にさらしを巻いて背中に御幣を立て、倍以上の大きさの馬たちにまじって堂々と歩くキズナは、沿道で見守る人々に大きな拍手で迎えられた。

 8月上旬、南相馬市で繋養されていた数頭の元競走馬が、公費での受け入れを表明していた北海道の日高町へと馬運車で運ばれて行った。その積み込みを手伝った将馬は、念入りにスクリーニングを受ける馬たちを見て、大迫と後藤田が現れるまで、キズナを買いたいという申し出がなかった理由を悟った。

 キズナは、原発事故の影響で、相当な量の放射能を浴びたと思われていたのだ。

「内部被ばくしているので、正常に成長することはできないだろう」

「あの仔馬の尿やボロの放射線量はかなり高いようだ」

「被ばくした仔馬が来ると、ほかの馬たちまで汚染されてしまう」

 などと、確かめたわけでもないのに噂する者たちがあとを絶たないという。

 将馬は、南相馬で酪農を営む知人に教えてもらった東京の民間研究所にキズナの尿とボロを送り、放射性物質の検査をしてもらった。結果は「不検出」だった。

 お盆明けに大迫から電話があった。

「杉下君、そろそろキズナをGマネのイヤリングに送ろうと思うんだが、いいかな」

「ジーマネ……?」

「後藤田オーナーが日高町で経営するGマネジメントという生産・育成牧場だ」

「はい」

 ついにキズナを手放すときが来るのか。

「オーナーは、Gマネのスタッフとして君を雇ってもいいと言っている」

「……」

 突然の申し出に、驚いて言葉が出なかった。

「どうする?」

 将来杉下ファームを再建するとき、日本随一の設備と人材を有するGマネジメントで働いた経験は大いに生かされるはずだ。

「せっかくですが、お断りします」

 言いながら、自分の口から出た返答に驚いていた。

「理由を訊いてもいいかな」

「ぼくは……」

 そう言いかけてからどのくらい経っただろうか、大迫は黙って将馬の言葉を待ちつづけてくれた。

「ぼくは、南相馬の杉下ファームの杉下将馬です。一頭も繁殖牝馬がいないうえに、警戒区域に指定されて立ち入ることさえできない弱小以下の牧場ですが、祖父と父が築き上げたものを守るには、今ぼくがここを離れてはいけないような気がするんです」

 大迫が息をついたのがわかった。

「そうか。ところで、キズナを売った1億円はどうした?」

「口座に入ったままです」

「私からアドバイスできることがあるとしたら、その金を杉下ファームのためだけに遣うようにしろ、ということだ」

「どういうことですか」

「そこから1円たりともよそに寄付したりするんじゃない。その1億で何人の生活をどのくらい救えると思う? 数人、数十人を何か月か楽させたら消えてなくなる。だが、君の小さな牧場を再建することはできる」

 津波てんでんこと同じ発想だと思った。自分で自分自身を救ってこそ、周囲と一緒に次の一歩を踏み出すことができるのだ。

「わかりました」

「いろいろなことを言う人間も出てくるだろうが、有名税だと思って我慢するんだな」

 8月の終わり、相馬からクルマで30分ほどの宮城県南部にある民間トレーニングセンターを経由した馬運車がキズナを迎えに来た。

 タラップを上るときまでは、いつもの落ちついたキズナのままだった。

 しかし、将馬がキズナを車内に残して降りようとしたとき、キズナは珍しく四肢をバタつかせ、鉄柱につながれた曳き手綱をほどこうとした。

 馬運車の扉を閉めると、なかからキズナの鳴き声が聞こえてきた。

 小さな体に不似合いな広さの枠に入ったキズナの姿を思い出すと切なくなったが、キズナが競走馬として、また生き物として強くなるにはこうするしかないのだと自分に言い聞かせた。

 キズナを乗せた馬運車は、北海道を目指して水戸街道を北上して行った。(次回へつづく)

▼登場する人馬
杉下将馬…杉下ファーム代表。前年牧場を継いだ23歳。
キズナ……震災翌日に生まれた芦毛の当歳牡馬。父シルバーチャーム。
ブライトストーン…キズナの母。愛称シロ。父ホワイトストーン。
大迫正和……美浦トレセンのカリスマ調教師。
後藤田幸介……大阪を拠点とする大馬主。

※この作品には実在する競馬場名、種牡馬名などが登場しますが、フィクションです。予めご了承ください。
※netkeiba.com版バナーイラスト:霧島ちさ

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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