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ボンネビルレコードが教えてくれたこと

  • 2013年07月09日(火) 18時00分
 今年の『帝王賞』で誘導馬デビューを果たしたボンネビルレコード。中央地方問わず多くのファンに愛さ続けるボンちゃんの、中央時代を担当した藤盛正治持ち乗り調教助手に、その想いを語っていただきました。

現在の担当馬タニセンジャッキー

現在の担当馬タニセンジャッキー

赤見:馬の世界に入ろうと思ったキッカケは?

藤盛「高校生の時に競馬を見て、面白いなと思って。高校卒業する時に、その時体もちっちゃかったから、乗り役になりたいなと思って地方競馬教養センターの試験受けたけど、体重制限で落ちちゃったんです。その後、宇都宮の小松澤義江調教師が声掛けてくれて、下乗りに入りました。馬に触ったこともなかったし、競馬の世界も初めてだったんで戸惑うこともありましたね。宇都宮は競馬場の外に厩舎があったから、毎朝普通に道端を歩いて調教に行くんですよ。車とかバンバン通るし、踏切も待ったりするし。今考えるとすごい競馬場だったなと。

下乗りの仕事をしてみて、『俺、厩務員には絶対になれないな』って思いました。だって、見た目には全然わかんないのに馬の調子を見極めるし、バンテージ巻くことだって、『キツ過ぎず緩すぎず』って、けっこう技術がいるでしょう。そういう仕事ぶりを見てて、すごいなって思ってましたから。1年くらい修行させてもらって、体も大きくなって来て、騎手になる夢は諦めました。その後は家の仕事をしたりしたんですけど、やっぱり馬の仕事したいなって思って、小山の牧場に行ったんです。そこで働きながらJRAの厩務員試験受けて、3回目で受かりました。

赤見:JRAに入ってからはいかがでした?

藤盛「厩務員になって1か月で堀井雅広厩舎所属になりました。初勝利は…半年以上かかりましたね。トレセンに1月に入って、勝ったの9月でしたから。岡部幸雄騎手で勝ったんですよ。もう楽勝。でもレース後に岡部騎手に怒られちゃって(笑)。あの頃って、太いゴム手綱が流行ってたじゃないですか。でも俺、細いの買っちゃったんですよ」

赤見:あの頃の細いゴム手綱はすごく手が痛くなるんですよね。私、手の平の皮が剥けましたもん。

藤盛「そうそう、俺知らなくて。それで、『この手綱は使わないで欲しい』って岡部騎手に言われて。でも堀井先生は、俺がレース用に自腹で買ったのを知ってたから、岡部さんに食って掛かってくれて。岡部騎手で勝てたことも嬉しかったし、堀井先生が庇ってくれたことも嬉しかったし。いい想い出ですね」

赤見:初勝利は泣きました? 勝って泣いたことってありますか?

藤盛「泣いてないですよ(照)。まあでもボンネビルレコードで『帝王賞』を勝った時は…レース後に家に帰ってリプレイ見た時に、目頭が熱くなりました。何て言ったらいいんだろう。嬉しいというかね、そういう大きなレースに出られたことも、10何年厩務員やってからだから。自分としては、ここまでやってきた下積みがあったからこそ、勝てたんじゃないかなって思いました」

赤見:ボンちゃんの担当になるって聞いた時はどんな気持ちでした?

藤盛「ボンちゃんは地方でもうすごく走ってて。重賞バンバン勝ってたから、プレッシャーもありましたね。交流レースでも上位に来てましたから。最初の頃はかなりうるさかったんですよ。環境の変化に戸惑ったみたいで、調教してると周りからも、『藤盛くん、何なのその馬?』って言われるくらい暴れてて。いい体力作りさせてくれました(笑)。体力的にもそうだし、脚温めたり冷やしたり、マッサージとかもしてて相当時間が掛かりました。あんまり家に帰る時間もなくて、5キロくらい痩せましたね。ボンちゃんと一緒に馬房の前でご飯食べたりしてて。

あの馬って環境に慣れてからは大人しいと思われてたんですけど。午後の手入れとか半端なかったですから。『帝王賞』とか『かしわ記念』勝った頃なんて、レース前の手入れもすごかったんですよ。洗い場で尻っぱねするわ、蹴りに来るわでもう大変。『帝王賞』を勝った時はかなり入れ込んじゃって、もう汗ダラダラ。『今日はダメかもしれない』って思ったくらいでした」

赤見:ボンちゃんと言えば、大井の的場文男騎手ですよね。

藤盛「だからって、何か癖があるとかじゃないんですけどね。どうなんだろうね。若い頃は内田博幸騎手で大井の『金盃』を勝ってるし、武豊騎手や岩田康誠騎手でいいレースしてるんですよ。ただ、最後の方は若い頃と違って、自分からガンガン走るって感じじゃなったから。

ファンの方が的場さんとのコンビを楽しみにしててくれたのも嬉しかったですね。2009年の『ジャパンカップダート』の時、的場さんがワールドスーパージョッキーズシリーズの権利を獲って乗りに来れるってなった時は、ドラマだなって思いました」

赤見:的場さんの6000勝達成記念で、特製ジャンパーを作って、的場さんや的場さんの関係者にプレゼントしてましたよね?

藤盛「的場さんには本当に感謝の気持ちしかないですよ。ボンちゃんの塩田オーナーの勝負服と、的場さんの勝負服のデザインを併せて作ったんです。的場さんにあげたら、すごく喜んでくれました。レースで曳く時のヘルメットカバーも、的場さんの勝負服に合わせて赤地に白星にしてました」

中央所属最後の出走となった川崎記念

中央所属最後の出走となった川崎記念

赤見:まさに、中央と地方のコラボですよね。

藤盛「こういうのはなかなかないですよね。中央の馬に地方の騎手が乗って、地方の大レース勝つって。実は『かしわ記念』の口取り写真て、的場さん自分の勝負服で写ってるんですよ(笑)。砂被って汚れちゃったからか、慌てて着替えたみたいで。でも自然すぎて誰も気づかなかったから(笑)。

それに、堀井先生は俺を信じてくれて、調教から普段の世話から全部やらせてくれたんです。やっぱりあれだけの馬になったら、攻め馬は助手さんがしたりして、なかなか一人で全部ってわけにはいかなくなるでしょ。でもご飯から何から全部やらせてもらって、周りのスタッフも協力してくれて。足掛け3年くらいか。すごく勉強になりました。だから、引退するまでっていう気持ちもあったけど。もともと居た所に戻ったんでね。頑張ってねって気持ちで送りました」

赤見:南関東に戻ってからのボンちゃんのレース、いつも見に行ってましたよね?

藤盛「行ける時は全部行きました。ナイターが多かったから、仕事が終わった後に見に行くことが出来ました。パドックとか見てて、『無事に頑張ってね』って遠くから応援してました。最後の『東京大賞典』も見に行ったんですけど。まあやっぱり、感慨深かったというか。本当にお疲れ様って思いました。

誘導馬になるって聞いた時は…なまじ種馬になっても、もし結果が出なかったらその後どうなるかわからなくなったりするじゃないですか。行方がわからなくなる馬もいるし。そういうことを考えると、いい選択だったのかなと思います。周りの方々に可愛がってもらってるし、こないだの『帝王賞』の時も見に行ったら、ファンの方が『ボンちゃんボンちゃん』て言ってて。すごく嬉しかったです。引退した馬に会える機会って、なかなかないじゃないですか。牝馬はお母さんになってくれたら可能性はあるけど、牡馬はなかなかね。だからこういう風に会いに行けるっていうのは、本当に嬉しいし励みになりますよ」

誘導馬デビューしたボンちゃんと藤盛さん

誘導馬デビューしたボンちゃんと藤盛さん

赤見:ボンちゃんはどんな存在ですか?

藤盛「なんだろうね。言葉にするのは難しいですけど。戦友? いや、偉大な馬だったから、そういう風に言うのは失礼なんじゃないかな。ボンちゃんに教えてもらったことはたくさんあるけど、精神的なことが大きいような気がします。やっぱり、走る馬を担当すると注目されるでしょ。あの馬を担当したからこそ出会った人もいるし、見えたこともあるし。注目されるっていうのはいいこともあるけど、やっぱり難しいことなんですよ。そういう人間関係みたいなことを教えてもらいました」

赤見:今後の目標は?

藤盛「ボンちゃんみたいな馬を担当出来るのは、宝くじみたいなもんだから。たくさん勉強させてもらったし、あの時もっとこうしていれば良かったって思うこともあります。ボンちゃんだけじゃなくて、今まで関わらせてもらった馬たちに教えてもらったことをこれからの馬たちに活かせればって。それが恩返しだと思ってます。今はタニセンジャッキーとタニセンダイナストという馬を担当させてもらってるので、この2頭にとっていい環境を作れるように、毎日試行錯誤してます」[取材:赤見千尋/美浦]

常石勝義
1977年8月2日生まれ、大阪府出身。96年3月にJRAで騎手デビュー。「花の12期生」福永祐一、和田竜二らが同期。同月10日タニノレセプションで初勝利を挙げ、デビュー5か月で12勝をマーク。しかし同年8月の落馬事故で意識不明に。その後奇跡的な回復で復帰し、03年には中山GJでGI制覇(ビッグテースト)。 04年8月28日の豊国JS(小倉)で再び落馬。復帰を目指してリハビリを行っていたが、07年2月28日付で引退。現在は栗東トレセンを中心に取材活動を行っているほか、えふえむ草津(785MHz)の『常石勝義のお馬塾』(毎週金曜日17:30〜)に出演中。

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