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七転び八起き!茂呂菊次郎の終わりなき戦い

  • 2013年08月06日(火) 18時00分
 北関東のトップジョッキーだった茂呂菊次郎(もろきくじろう)元騎手。名前のインパクトと、ヨシノキング(金沢・サラブレッドチャレンジカップ)、メタルカラー(盛岡・せきれい賞)など全国的に活躍した名馬と共に、覚えてる方も多いのではないでしょうか。高崎廃止から9年。名ジョッキーが辿った、紆余曲折な競馬人生を語っていただきました!

赤見:高崎が廃止になる時、けっこう急だったじゃないですか。今振り返ってどうですか?

高崎でティーエスフリートに跨り勝利する<br>現役時代の茂呂元騎手

高崎でティーエスフリートに跨り勝利する現役時代の茂呂元騎手

茂呂:うちらも、やることはやったじゃない。デモしたり、署名集めたり。たくさんのファンの方が賛同して応援してくれたことも嬉しかったし、結果的にはダメだったけどライブドアが動いてニュースにもなった。あれだけ抵抗したわけだから、もうしょうがないかなって思える。高崎で競馬をやりたい!って戦えたことは良かったと思ってるよ。

若ければ移籍も考えたけど、あの時43歳だったし、受け入れてくれるところもなかなかなかったから。それに、けっこう減量もキツくて、毎週競馬のたびに4キロ落としてたことも大きかったかな。

中学3年の時に境町トレセンに来て、朝手伝ってから学校に通ってた。そこからずっと馬の道で来たから。高崎が終わるまで精一杯騎手やれたんでね、悔いはないよ。リーディングも獲らせてもらったし、中央とかもたくさん行かせてもらって。順風満帆とまではいかなくても、悔いなしのジョッキー生活だったかな。

赤見:騎手を引退した後は、車の部品工場に勤めたんですよね?

茂呂:競馬がもうダメだって決定したんで、すぐハローワークいって仕事見つけなきゃって。厩務員になるのも…今まで見ててキツイ仕事だっていうのはわかってたから、騎手を辞めるからって簡単に出来ることじゃないなと思ってた。それに、いったん外の世界を見てもいいかなという思いもあって。実際に工場行ってみて、相当キツかったね。今までとは全く違う仕事で想像以上にくたびれた。そこで働いてる時に、大先生(木村甚太郎元調教師)の息子の昌志くん(木村昌志元調教師)から連絡があって、『鹿児島の育成牧場へ一緒に行かないか』って声かけてもらったの。

赤見:久しぶりに馬の仕事をしてみて、どうでした?

同じ馬の仕事でも新鮮味があった

同じ馬の仕事でも新鮮味があった

茂呂:やっぱり、高崎で乗ってた頃と環境が違うから。同じ馬の仕事でも新鮮味はあったね。騎手の時は乗ってるだけだったけど、馬の世話もするようになったし。もともと育成の施設はあったんだけど、俺らみたいに競馬場で整った施設の中でやってた人間からしたら、『これは危険でしょ』という感じだった。だから、自分たちでラチ直したり馬場直したりね。そこに3年半いて、牧場の状況が変わって昌志くんが辞めることになったんで、俺も一緒に移動することにした。昌志くんの紹介で、もう一度境町に戻ることになったの。

赤見:戻って来る時、どんな感じでした?

茂呂:しばらく前から、境町が育成牧場として始めるって話が出てて、『帰って来ないの?』って声かけてくれる関係者もいたんだけど。馬の世界に居るなら、俺は全部昌志くんに任せてたし、昌志くんも俺を使ってくれてて。ずっとセットで働いてきたから、一人で動く気はなかった。

赤見:茂呂さんは長い間木村先生に仁義を通していたんですね。

茂呂:もともとはお父さんの甚太郎先生のところの所属だったけど、高崎が終わる前に亡くなってしまったんでね、最後は息子の昌志くんの所属にしてもらった。中学の時に厩舎に入ったから、厩舎で一緒に飯食って育って。ずっと一緒に仕事して来たから。昌志くんだけじゃなくって、甚太郎さんにずっと世話になって来て、面倒見てもらってさ、その中で茂呂菊次郎が出来たわけでしょ。デビューした頃なんて、俺に乗せたがる馬主なんていないんだから。そりゃそうだよ。上手いジョッキー乗せて少しでも上の着順に来て欲しいんだからさ。それを甚太郎さんが頭下げてくれたり、馬主と喧嘩したりしてさ、なんとか俺を乗せようとしてくれた。『茂呂を乗せるのが嫌なら、他の厩舎に持って行ってくれ』とまで言ってくれたんだ。そう言われたらさ、もう頑張るしかないだろ。少しでも上手くなって恩返ししたいって思うよ。

赤見:実際に境町に戻ってからはどうですか?

茂呂:騎手を辞める時に、もう馬の仕事はしないだろうなと思ってたから、照れみたいなのはあったよね。でも、気心知れてる仲間がいるのは心強い。今の環境が理想かって言われたら、そりゃ競馬をやってる時とは活気が全然違うけど。でもこうやって高崎時代の仲間たちと一緒に育成やったり、大井の外厩としてここから競馬を使えたりするのはいいよ。

赤見:レース乗りたいと思います?

「たまには乗りたい」と茂呂元騎手。写真は04年の12月、高崎

「たまには乗りたい」と茂呂元騎手。写真は04年の12月、高崎

茂呂:思う。たまには乗りたいなって。ゲート裏まで行って、馬曳いてゲートに入って離すでしょ。そういう時は『乗りたいな』って思うよ。騎手を乗せちゃえば、下に居る人間はもうジョッキーに任せるしかないじゃん。どうにも出来ないわけじゃん。今までと逆の立場なんだよ。今度は下に居る立場になってさ、『俺らも馬の上に居る立場の時、こうやって思われてたんだな』って気づくこといっぱいある。調教師が『この馬鹿野郎!』って怒るのもわかるなって(笑)。

赤見:どっちが大変ですか?

茂呂:あのね、馬の上に居る立場の方が逃げられる。騎手だった頃はさ、『ちょっと太いかな』とかさ、『レースの流れが』とか言えるし。でも下に居る方は、負けたら『今度はどうやって仕上げようか』って考えるんだよ。馬主さんにも、やっぱり乗り役のせいにはしたくない。ミスってるのがわかってても、俺も同じだったから。今は、『すいません、俺の努力が足りなくて』って謝る。だって、稽古も手入れもエサも、全部俺がやってるんだから。そういう立場になってみて身に染みてる。

俺、内田(利雄騎手)と同期で、けっこう乗ってもらうんだけど。やっぱりね、ヤツが乗ると馬の力が足りないのが露呈されるの。必ずキッチリ乗って、いいレース運びをしてくれるんだよ。で、明らかに馬の力不足だなっていう負け方をする。さすがだよね。例え負けても納得のレースをすると、『完璧だろ』って言うし(笑)。言い訳とか、余分な言葉はいらないよね。

想いまでは消えないってことを証明したいね!

想いまでは消えないってことを証明したいね!

赤見:今後の目標は何ですか?

茂呂:今は手伝ってる立場だけど、いつか自分で開業して外厩をやりたいなって思う。簡単なことじゃないけど、そういう夢は持ってる。それで、境町から大井の大きなレースを戦えるような馬を育てたいね。高崎競馬はなくなってしまったけど、境町トレセンがこういう形で残ったことは有難いよ。仲間は多いし、他にも廃止になった競馬場から来て頑張ってる人たちもいるし。競馬場がなくなっても、そこで戦ってきた想いまでは消えないってことを証明したいね![取材:赤見千尋/境町トレセン]

常石勝義
1977年8月2日生まれ、大阪府出身。96年3月にJRAで騎手デビュー。「花の12期生」福永祐一、和田竜二らが同期。同月10日タニノレセプションで初勝利を挙げ、デビュー5か月で12勝をマーク。しかし同年8月の落馬事故で意識不明に。その後奇跡的な回復で復帰し、03年には中山GJでGI制覇(ビッグテースト)。 04年8月28日の豊国JS(小倉)で再び落馬。復帰を目指してリハビリを行っていたが、07年2月28日付で引退。現在は栗東トレセンを中心に取材活動を行っているほか、えふえむ草津(785MHz)の『常石勝義のお馬塾』(毎週金曜日17:30〜)に出演中。

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