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【特別企画】田辺裕信騎手の『私の恩人』(1)―“無気力”だった自分を引き取ってくれた小西師

  • 2014年07月23日(水) 18時00分
私の恩人2
「あの人がいたから今の自分がある」「あの人のあの言葉があったから、ここまでやってこられた」──誰の人生にも“宝物”のような出会いがある。浮き沈みが激しく、つねに“結果”という現実にさらされているジョッキーたちは、そんな“宝物”たちに支えられているといっても過言ではない。ここでは、そんな出会いや言葉でジョッキー人生がどう変わり、そして今の自分があるのかを、ジョッキー本人の言葉で綴っていく。春に続く第2弾は、田辺裕信からスタート。 デビュー以来、一貫して彼の礎である“恩師たち”の存在をはじめ、2011年のブレイクには、やはり背中を押してくれた言葉や出会いがあった。感謝の意とともに、今、改めてジョッキー人生を振り返る。(取材・構成/不破由妃子)

◆ほとんどの教官から「不可」の烙印

 思えば2014年のGI戦線は、ド派手な幕開けだった。第31回フェブラリーS。勝ったのは、早め先頭から長い直線を押し切ったコパノリッキー。16頭立ての16番人気馬の勝利に、東京競馬場は異様な興奮に包まれた。JRAの平地GIにおけるシンガリ人気馬の勝利は、89年エリザベス女王杯のサンドピアリス、00年スプリンターズSのダイタクヤマトに次ぐ3頭目。単勝27,210円は、サンドピアリスの43,060円に次ぐGI史上2番目の高配当であった。

「放心状態です」

 デビュー13年目の嬉しいGI初制覇に、田辺裕信は涙を見せるでもなく、爽やかな笑顔でそうつぶやいた。いまや関東で五指に入る存在となった田辺だが、意外にもGI初騎乗は2010年(朝日杯FS・タガノロックオン12着)と最近だ。2008年までの勝ち星は年間10勝前後に止まり、主戦場はもっぱらローカル。馬券玄人には欠かせないジョッキーだったが、全国的に見れば地味な存在だったといっていい。

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▲シンガリ人気コパノリッキーで、フェブラリーS大金星


 競馬界に限らず、ささいなことがきっかけで人生は変わる。その変化は、劇的かもしれないし、小さなきっかけの積み重ねかもしれない。なかにはそのきっかけに気づけない人もいるだろう。しかし、田辺の騎手人生はたしかに一変した。それはもちろん、彼にジョッキーとしての十分な下地があったからだが、やはり、その下地を作ってくれた人、きっかけを与えてくれた人の存在がある。

 幼いころから動物が苦手だったという田辺。そんな彼に、まず最初のきっかけを与えたのは、大の競馬ファンである父親だった。

 父親の影響で、競馬はよく観ていました。とはいえ、とくに惹かれることもなく、ジョッキーに対しての憧れはなかったです。だから、父親のすすめがなければ、まず間違いなくこの世界には入ってなかったですね。なにしろ動物が嫌いで(苦笑)。とくに怖い思いをした記憶はないんですが、ちょっと潔癖なところがあるのか、触ることもそうですけど、舐められたりするのが本当に嫌で。慣れるまでは、馬に乗るのも本当に嫌でした。当たり前ですけど、跨るとぬくもりが伝わってくるし、腹は動いてるし。今はもちろん大丈夫ですが、当時の僕の内股は、それはそれは敏感でしたね(笑)。

 ジョッキーに対する憧れもなく、なりたい! という意志も曖昧だったからか、競馬学校時代の田辺には、“無気力”という烙印が押された。とはいえ、心が折れることもなく、田辺いわく「流された」。「流された」というとあまり聞こえは良くないが、今につながる順応性があったのだろう。

 流されたというか溶け込んだというか。その生活自体が自分のなかで当たり前になっていきました。それでも、馬に乗って、ご飯を食べて、ちょっと休んで学科の授業を受けてという生活が延々と続くので、毎日がマンネリ化していましたし、とにかく眠かった。柔道の授業では、投げられた瞬間にマットの上で眠れる気がしましたもん(笑)。学科が大嫌いで、とにかく眠くなるんです。うつ伏せで寝ると苦しくなるので、椅子に浅く腰かけて、椅子の背もたれに後頭部を乗せて寝てたんですけど、つまり上を向いて寝ているわけで、当然バレますよね(笑)。授業態度を含めた学科の評価は、僕だけほとんどの教官に「不可」を付けられました。

 そんな日々のなかで、ある日、田辺は校長室に呼ばれ、こっぴどく怒られた。

 居眠りだけではなく、部屋が汚いとか、髪の毛が長いとか、呼ばれた理由はいろいろありましたが、とにかく学科について「無気力だ」と言われましたね。僕は早々と小西厩舎に所属することが決まっていたんですが、校長先生に「辞めるって小西先生に連絡をするから、今すぐ荷物をまとめろ」と言われまして。僕は「えっ?」みたいな感じでボーっとしていたら、隣にいた担当教官に「お前は辞めたいんかぁー!」って怒鳴られました。でも、あとで小西先生に「井上校長から連絡はありましたか?」って聞いたら、「誰それ?」って(笑)。カマをかけられたんですよね。でもまぁ、競馬学校の3年間は、そんな感じで過ぎていきました。

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▲田辺「学科が大嫌い。校長室にも呼び出されました」


 田辺がいた競馬学校18期生は、卒業した時点で10人。しかし、デビューしたその年に、井西泰政が交通事故で、2004年には竹本貴志が障害レース中の落馬事故で命を落とすという、つらい出来事もあった。

 そういうことがあったから、やはり車の運転は慎重になります。障害に関しては、僕は乗ったことがないのでわかりませんが、竹本は苦労してジョッキーになったヤツだったので…。今でも竹本の家族とはよく連絡を取り合っています。本当に親身になって応援してくれているんです。支えになりますね。

 先の言葉にもあった通り、田辺は同期に先駆けて小西一男厩舎への所属が決まっていた。その理由について、

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