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勇退する角居勝彦調教師と、京都競馬場で

  • 2018年01月11日(木) 12時00分


 キタサンブラックの引退式を取材するため、1月7日、京都競馬場を訪ねた。

 検量室前で、第9レースに管理馬を出走させていた角居勝彦調教師に会った。

 角居師は、祖母の代からつづく天理教の仕事を継ぐため、3年後の2021年2月末に調教師免許を返上して勇退することが報じられたばかりだった。

 毛糸の帽子をとって、「こんにちは」と笑顔を見せた角居師に、「勇退の報道、驚きました」と私が言うと、「そうですか」と、いつもの静かな口調で答えた。

「あと3年、頑張ってください」

「はい、ありがとうございます」

 と角居師は、9番人気ながら2着に健闘したキングジュエリーを枠場に迎えに行った。

 私が角居師に初めて取材したのは、ウオッカのダービー参戦が正式に決まった2007年4月のことだった。その後もたびたびインタビューする機会を得て、スポーツ誌「ナンバー」の名将特集で、角居師のページを担当したこともあった。

 私は1964年の11月生まれで、角居師は同年の3月生まれ。学年は角居師がひとつ上になるが、師が調教助手時代に所属していた松田国英調教師と、私が私淑する直木賞作家の伊集院静氏が同じ1950年生まれだ。師と仰ぐ人まで同世代というだけで、私は一方的に親近感を抱いていた。

 取材や、内外のビッグレースのパーティーなどで、師から聞いた、馬づくりに関する印象深い言葉がいくつもある。

「馬づくりは人づくりから」

「馬の能力はあとづけすることができない」

「いいホースマンとは気配を読める人。人と馬、人と人との関係を、言葉に頼らなくても感覚的に把握できる人」

「牝馬は、下でかわいがる人と、上でいじめる人を別にしたほうがいい」

「人と馬との結びつきの強いほうが、大舞台の最後のつばぜり合いで一歩前に出られるのだと思う。思い入れの強いほうがハナ差の勝利をものにする」

「和気あいあいがいいというわけではない。ギスギスすることによって、人も馬も壁を越えられることもある」

「馬は、強さも弱さも無限大にひろがる生き物だと思う。こちらのすべてを見透かされているんじゃないかと思うときもあります」

 こういった素敵な言葉をプレゼントしてもらえることも、私にとっては、競馬関連の取材をすることの大きな魅力のひとつになっていた。

 そのくらい、私にとって、角居勝彦調教師は大きな存在だったし、今もそれは変わらない。

 そんな角居師の勇退をネットのニュースで知ったのは、京都競馬場に来る前日のことだった。ショックが大きく、これで見納めかのような感覚になってしまったのか、「2」と刻印された枠場に立つ角居師の写真をスマホで撮ったりしていた。

 そのあと関係者席に上がり、ぼんやりコースを眺めていると、顔見知りの、角居厩舎の前川和也調教助手が来た。

「前川さん、次の行き先の目処はついているんですか」

「いえ、ぜんぜんです」

 前川助手は、私から2、3列離れた横に座った。ほかの厩舎のスタッフに「前川、質問責めで大変やな」と言われ、「そうですね。みんな、このあとどうするんだ、と心配してくれるんです」と答えていた。

 少し経つと、そこに角居師も加わった。

 つい先刻、しばらくお別れになるかのような顔で話したばかりだったので、何となくばつが悪かった。

 新聞を見ると、次の第10レース「寿ステークス」に角居厩舎の馬が2頭出ている。エアウィンザーとレトロロックだ。ターフビジョンに、返し馬を終えたエアウィンザーとレトロロックが並んで歩くツーショットが映し出された。それぞれの鞍上の岩田康誠騎手と浜中俊騎手が言葉を交わしている。この意味深なツーショットを見た角居師が、「解散するんだってな、と話しているのかな。でもまだ3年あるんだぞ」と言うと、角居厩舎のスタッフも、他厩舎のスタッフも笑った。

 大きな決断を下したが、解散する3年後まではこの日常がつづく。つまり、角居師が目指す「世界に通用する馬づくり」を全力でつづけていくことに変わりはない――ということが、その場の空気からよくわかった。

 GIを29勝、うち5勝は海外GIという「世界のスミイ」の勇退は、確かに、日本の競馬界にとって大きな損失だ。

 キタサンブラックのいない競馬を見なければならない「キタサンロス」を味わっている私たちは、3年後、「スミイロス」が来ることを覚悟しなければならない。

 しかし、「ロス」があるのはなぜかというと、その存在によって、感動や興奮などさまざまなものを与えられ、それらで胸が一杯になったからだ。

 そうする時間が私たちにはあと3年ある。

 角居勝彦調教師が送り出す馬たちの走りを、あと3年、しっかりと見つづけたい。

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作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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