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コスモバルク優勝祝賀会

  • 2006年06月20日(火) 23時49分
 やや古い話題になってしまったが、去る6月10日夕刻、新ひだか町の静内公民館にて、シンガポール航空国際Cを制したコスモバルクの優勝祝賀会が開催された。

 通常、この種の祝賀会は、地元の生産者団体などが企画し、だいたい「会費制」で行われるのが通例である。だが、コスモバルクの場合は、(有)ビッグレッドファームが主催し、全ての経費を負担しての招待制という異例の祝賀会となった。我々の元に届いたのは「案内状」だけで、当日は私も“手ぶら”で出かけた。

 午後5時開会。6月の午後5時はまだかなり明るい。着替えてこの時間に会場入りするためには、浦河に住む私の場合、出発が1時間前になる。午後4時に家を出るためにはそれよりさらに早めの時間に仕事を片付ける必要があるわけで、そのせいか浦河方面からの出席者はやや少なかった。

 とはいえ、全体では約300人ほどの関係者が一堂に会し、改めてコスモバルクの優勝を祝った。会場入口のロビー両側に、ビッグレッドファームの従業員がズラリと並び、玄関から入ってくる客に1人ずつ頭を下げる。こうした牧場あげての歓迎ぶりはすでに1月の「ラフィアン創立20周年記念パーティー」でも経験済みだが、これはビッグレッドファームが「日高という地域に密着した牧場」であることを再認識させられる送迎風景である(祝賀会終了後も、同様の見送り風景が現出した)。

 パーティーは、冒頭まずコスモバルクの活躍を収録したDVDの“上演”からスタート。その後、マイネル軍団の総帥・岡田繁幸氏による喜び一杯のスピーチや、コスモバルク関係者(五十嵐騎手、田部調教師、生産者の加野喜一氏、オーナーの岡田美佐子氏)へのインタビューなどが続いた。

岡田繁幸氏 岡田美佐子オーナー


 祝辞に立った人々が一通り壇上から去って、次に登場したのは、中泉盛行氏。この人は、聞くところによれば岡田繁幸氏の静内高校時代の同級生という。昭和43年に同校を卒業した「仲間」らしく、何と舞台にギターを持って現れた。

中泉校長


 中泉氏は自作の「コスモバルク賛歌」を、ギターの弾き語りで披露し、会場を埋めた参加者の注目を集めていた。歌のレベルは、まあご愛嬌程度(といったら失礼か)だが、実はこのお方は自作の歌を収録したCDまで持参しての会場入りだったらしい。

 中泉盛行氏は、本業?が日高のとある小学校の校長である。昭和43年に静内高校卒だから、現在56歳といったところか。10代の終わりから20代前半という「多感な青春時代」にフォークソングの洗礼を受けた世代なのだ。中泉氏より6歳年下になる私にとってもそれは同じことで、当時は田舎の高校生たちの多くがギターを弾いてフォークソングを歌っていたものだった。

 まさに「三つ子の魂百まで」。若かりし頃に身につけた趣味は、ブランクがあっても容易には忘れられないのだろう。海援隊の歌う「母に捧げるバラード」のなかにこんな一節がある。「こらっ!鉄矢」で始まる台詞の部分である。「フォークソング狂いの馬鹿息子」と噂されているのをお前は知っているのか、という母の言葉を武田鉄矢は博多弁で延々と続けるのだが、この「フォークソング狂いの馬鹿息子」というのは、そっくり私自身のことでもあったので、当時(昭和49年頃)身につまされながらこのくだりを聴いたものだった。

 中泉校長も、たぶん「馬鹿息子」ではなかったものの「フォークソング狂い」だったんだろうなぁ、と1人で熱唱する姿を見て、ふと思った。あるいは、コスモバルクがGIレースを制覇したら「自作の歌をプレゼントする」とでも約束していたものか。

 巷でまたギターがずいぶん売れているらしい。若者だけではなく、我々のような中年、熟年の「元フォークソング愛好者」たちがその需要を支えているという。競馬とはまったく無関係な話題で恐縮だが、案外、こんなところに新たなビジネスチャンスが転がっているのではなかろうか。

 そして、もう一つ。この「団塊の世代」は、1970年代のハイセイコーブームを支えた世代でもある。「走れ、コータロー」なんていう競馬を題材にしたフォークソングもありましたね。増沢末夫騎手(当時)が、「さらばハイセイコー」という歌を吹き込んで話題になったのもこの頃のこと。考えてみると、今よりずっと競馬が世間に幅広く認知されていた時代だったような気がする。

岩手の怪物トウケイニセイの生産者。 「週刊Gallop」「日経新聞」などで 連載コラムを執筆中。1955年生まれ。

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