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第16話 壊し屋

  • 2012年09月17日(月) 18時00分
▼前回までのあらすじ
福島県南相馬市の杉下ファームは、2011年3月11日の東日本大震災で津波に襲われた。代表の杉下将馬が救い出した牝馬は牧場に戻って牡の仔馬を産み、息絶えた。仔馬は「キズナ」と名付けられた。キズナは、美浦の大迫調教師とともに訪ねてきた馬主の後藤田によって1億円の高値で購入された。キズナは2歳の春、美浦トレセンに近い育成場に入った。そこで将馬は、キズナの主戦騎手が「競馬界の問題児」と呼ばれる上川博貴に決まったことを知らされた。

『壊し屋』

 美浦トレセンで「馬最優先」の標識を見るたびに、場内の交通ルールのみならず、馬との接し方すべてに思いが至り、身が引き締まる。そういう関係者は自分だけではないはずだと思いながら、将馬は大迫厩舎のある南F列の奥のスペースにクルマを停めた。

 午後3時を回ったところだった。

 きょうのように曇っていると、3月中旬の美浦はまだまだ冬の気配が濃い。コートとマフラーがほしくなるところだが、動き回っているスタッフのなかには厩舎ジャンパーを脱ぎ、汗をぬぐっている者もいる。

 恐る恐るといった感じで大仲のほうから厩舎前を覗き込むと、何人もの若い厩舎スタッフから「こんにちはー!」と挨拶された。

 こうして声をかけられ、その声が周囲に響くことにより、部外者の自分にも居場所を与えられたような安堵感が得られる。このあたりのスタッフへの教育は、大迫が徹底して行っているのだろう。

 厩舎の庇と並行するようにミストの配管がほどこされ、前庭には芝が張られている。厩舎の中央部に置かれているのは活水器だろうか。

 外壁に「OHSAKO」とペイントされているのは、競馬週刊誌に掲載される重賞レース出走馬の写真をそこで撮影するための工夫だ。

 ――ここでキズナが撮影される日が来るのかな。

 そう考えると、少しドキドキしてきた。

 大仲と反対側、E列の厩舎に近い側にある玄関前のカーポートに大迫の軽四駆が停まっている。大迫は厩舎にいるようだ。

 玄関の呼び鈴を押そうとしたとき、低いエンジン音とともにダークグリーンのジャガーが厩舎前に滑り込んできて、大迫のクルマの後ろにつけようとした。

 ――危ない、ぶつかる!

 ジャガーは前に何もないかのような勢いでカーポートに進入し、ザッと砂を踏むブレーキ音をたてて静止した。

 ジャガーのノーズと大迫の軽四駆のリアバンパーの間は1センチあるかどうかだ。車間を見切って寸止めしたというより、ぶつかってもいいと思って勘でブレーキを踏んだだけの運転のように思われた。

 クルマから降りてきたのは、サングラスをかけ黒いスーツを着た細身の男だった。
 騎手の上川博貴である。

 テレビや雑誌でしか見たことがなかった、かつてのトップジョッキーが突然目の前に現れたものだから、さすがに緊張した。

「はじめまして、生産者の……」

 と言いかけた将馬を無視して、上川は呼び鈴も押さずに厩舎玄関の引き戸をあけた。

 入ってすぐの部屋が応接室で、重賞の口取り写真や優勝レイが壁に飾られている。右奥が事務室になっているようだ。

 上川は応接室のソファにドカッと腰掛け、犬でも呼ぶように将馬を手招きした。

「入れよ。寒いから早く戸を閉めろ」

 テレビのスピーカーを通して聴こえてくるような、芯が通っているというか、どこか不思議な響きのある声だった。

「はい、失礼します……」

 大迫は事務室で電話中だった。

 上川は大迫に断りもせず、テレビの横にある保温器から缶コーヒーをふたつとり出し、ひとつを将馬に放って寄こした。

 受けとったら、ものすごく熱かったので、思わず下に落としてしまった。

 そんな将馬の様子を見て、上川は「クックック」と笑っている。

 大迫が電話を終えて向かいのソファに座ってもまだ上川は笑っていた。

「何がそんなに可笑しいんだ?」

 と大迫に聞かれるとサングラスを外し、

「いや、こいつが缶コーヒーを落としたときのツラがマヌケすぎてさ。なあ、お前バカだろう」

 と将馬に向け顎をしゃくった。

「……」

「そうか、バカか。言っとくけどな、おれもバカだ。クックック……」

 まだ笑っているが、将馬には何が面白いのかまったく理解できない。上川の態度のデカさに驚きすぎたせいか、不思議なくらい腹が立たなかった。

 将馬が競馬を見はじめたころ、長身を綺麗に折り畳んだ上川の流麗な騎乗フォームに憧憬の念を抱いたものだ。甘いマスクで女性ファンも多く、特に大舞台での勝負強さには際立つものがあった。ところが、ここ数年、地方競馬出身の騎手や外国人騎手の台頭もあって乗り鞍が減り、そこに不祥事が重なって騎手免許を返上した。免許取消になる前に自ら返上したほうが再申請しやすいからそうしたらしく、来月、2013年4月からレースでの騎乗を再開するという。

「上川、キズナの調教DVDは見たか」

「ああ、暇だからな」

 大迫より10歳ほど年下なのに、ぞんざいな口の利き方をする。

「どう思った?」

「そんなの、自分で乗らなきゃわかるわけないだろう。ただ、先生んとこのミキティが可愛いってことはよくわかったよ」

 ミキティとは、キズナを担当する調教助手、内海真子のことだろう。

「2回福島でデビューさせる予定だから、そのつもりでいてくれ」

 上川はうなずき、ふんぞり返ったままソファの横にあった鞭を右手に持った。

「それはいいけど、天下の大迫正和調教師がおれに大事な新馬の騎乗依頼をするとはね。知らないわけじゃないだろう、おれが何て呼ばれていたか」

「『壊し屋』だろう?

 騎乗馬の能力を目一杯引き出して、故障させることが多いから、そう呼ばれるようになった」

「やっぱり知ってたんじゃねえか」

 と上川は上体を起こし、手にした鞭をくるりと回した。

「だからこそ騎乗依頼をしたんだよ」

「先生、あんた、正気か?」(次回へつづく)

▼登場する人馬
杉下将馬…杉下ファーム代表。2010年に牧場を継いだ20代前半。
キズナ……震災翌日に生まれた芦毛の2歳牡馬。父シルバーチャーム。
大迫正和……美浦トレセンのカリスマ調教師。
後藤田幸介……大阪を拠点とする大馬主。日高町に生産・育成牧場「Gマネジメント」を所有する。
内海真子……大迫厩舎調教助手。安藤美姫に似ている。
上川博貴……かつてのトップジョッキー。素行不良で知られる。

※この作品には実在する競馬場名、種牡馬名などが登場しますが、フィクションです。予めご了承ください。
※netkeiba.com版バナーイラスト:霧島ちさ

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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