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第17話 注文

  • 2012年09月24日(月) 18時00分
▼前回までのあらすじ
福島県南相馬市の杉下ファームは、2011年3月11日の東日本大震災で津波に襲われた。代表の杉下将馬が救い出した牝馬は牧場に戻って牡の仔馬を産み、息絶えた。仔馬は「キズナ」と名付けられた。キズナは、美浦の大迫調教師とともに訪ねてきた馬主の後藤田によって1億円の高値で購入された。キズナは2歳の春、美浦トレセンに近い育成場に入った。キズナの主戦騎手は「壊し屋」と呼ばれる上川博貴に決まった。

『注文』

 上川が「壊し屋」というありがたくない呼ばれ方をされるようになったのはいつからだったか。

 3年前、騎乗した新馬戦で2度つづけて競走中止になったときか。いや、もっと前から呼ばれていて、あの連続競走中止で定着したのだった。しかし、1頭目は他馬の落馬に巻き込まれたもので、次の馬はパドックで跨ったときから歩様が悪かった。調教師に出走を取り消すよう言ったのに押し切られ、最悪の結果になってしまった。

 上川に責任はなかったのだが、タイミングが悪かった。

 あのころから、特に馬主が上川を新馬戦に乗せるのを嫌がるようになった。預託先を見つけるのに苦労するほど馬がダブついていたバブル期までは「馬を預かってあげる」スタンスだった調教師の一存で騎手を決めることができたが、景気後退に歩調を合わせるように馬主の発言力が強くなった。

 それでも、一部の調教師は上川を起用しつづけた。関東で彼を使う調教師はほとんどいなくなっていたのだが、ここにいる大迫だけは、厩舎を開業したころから同じようなペースで騎乗を依頼してくれる。

 そして今回も、当歳だった去年から被災馬として注目されているキズナという芦毛馬に乗ってほしいと言ってきた。

 上川は、大迫がいつもの調子ではぐらかそうとしないよう目で制しながら訊いた。

「なあ、壊し屋だからこそおれに依頼したというのは、どういう意味なんだ?」

 右手に座った若い生産者が体をぴくりとさせたのがわかった。この男も同じことを訊きたかったのだろう。

 大迫が椅子に座り直して答えた。

「それは、お前に壊してほしいところがあるからだ。もちろん、脚元を壊せと言っているわけじゃない」

「壊してほしいところ?」

「あの馬は人間の心を見透かそうとするところがあって、人に期待されたぶんだけ返そうとするのが癖になっている。ときには自分を見失い、気がついたら大声を上げているような状態に追い込んだり、キズナの気持ちの殻を壊してほしいんだ」

 そう話す大迫のように、調教助手上がりで好成績をおさめている調教師は例外なく、馬を人間と同等かそれ以上に知的で、豊かな心を持った存在ととらえている。あるいは、そうした存在であることを前提として接している。彼らは、

 ――馬と犬、どちらが賢いですか?

 と問われたら「馬」と答えるだろう。

 しかし、年間100勝以上するような、いわゆる「一流」と呼ばれる騎手なら例外なく「犬」と即答するはずだ。

 馬というのは、右にハンドルを切ったら左に行こうとしたり、進めと指示しても通じたり通じなかったりで、怖がってすぐにパニクる。そもそも、犬のように頭がよければ、鞭で叩かれようが何をされようが、背中に人を乗せて何度も全力疾走などしないだろう。

 人が乗らなければ真っ直ぐ走ることすらできない、厄介で、欠点だらけの乗り物を数多くコントロールして結果を出してきたトップジョッキーの感覚とはそういうものだ。

 どちらのとらえ方が正しいかはともかく、「名選手は名監督ならず」のように「名騎手は名調教師ならず」なのは、そのあたりの感覚によるのかもしれない。

「なるほど。癇癪持ちのミキティを担当にしたのと同じ理由か」

「似ているが、彼女にはこれからもキズナと支え合ってもらう。お前には、制御不能になるまで追い込んでも構わないから、爆発力を引き出してほしい」

「そういうことか」

 言いながら杉下という生産者のほうを見ると、目が合った。

 こんなに真っ直ぐな目で相手を見ていた時期が自分にもあったのだろうか。期待、希望、夢、結果に対する恐れなど、いろいろなものが目の光から伝わってくる。

「よろしくお願いします!」

 と上川に頭を下げ、紅潮した顔をまたこちらに向ける。

 この若者から発せられているものを受け止めることが今の自分にはできないように感じ、目をそらした。

「ジロジロ見てんじゃねえ、気色悪い」

 上川が言うと、

「す、すみません」

 とうつむいた。

「すぐに謝るようなことをするな、バカ」

「はい、すみません……あ」

 また謝ってしまいました、と頭をかく杉下を見て、大迫が珍しく笑っている。

 ――こいつが生産者で、馬主が後藤田で、担当助手がミキティ、そして主戦騎手がおれか。大迫のテキも、ずいぶん思い切ったことをやるもんだ。

 その大迫が、ふっと笑みを消した。

「上川、もうひとつ注文がある」

「なんだよ」

「新馬戦の勝ち方に関することだ」

「まだ入厩もしてねえのに、勝ち方だとォ?」(次回へつづく)

▼登場する人馬
上川博貴……かつてのトップジョッキー。素行不良で知られる。
杉下将馬…杉下ファーム代表。2010年に牧場を継いだ20代前半。
キズナ……震災翌日に生まれた芦毛の2歳牡馬。父シルバーチャーム。
大迫正和……美浦トレセンのカリスマ調教師。
後藤田幸介……大阪を拠点とする大馬主。
内海真子……大迫厩舎調教助手。安藤美姫に似ている。

※この作品には実在する競馬場名、種牡馬名などが登場しますが、フィクションです。予めご了承ください。
※netkeiba.com版バナーイラスト:霧島ちさ

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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