6/25の帝王賞で星になった兵庫のオオエライジン。彼は記録以上に、私たちに記憶を残した馬だった。交流レースに出走する度、兵庫のファンはオオエライジンを誇りに思った。全国の地方競馬ファンがオオエライジンに注目した。6年間の生涯に詰まった彼の魅力とは一体なんだったのだろうか。オオエライジンのオーナー公認応援隊長・大恵(オオエ)陽子が、彼を偲び、ルーツを誕生から振り返っていきたい。(取材・文・写真:大恵陽子)
◆大みそかの電撃発表 前年、初めてJRA勢に挑戦した兵庫GTをきっかけに、2012年、ライジンはJRA勢に果敢に挑戦していくこととなる。佐賀記念、帝王賞、東京盃、JBCスプリント、そしてふたたび兵庫GT。
▲2012年、この佐賀記念から全国遠征を敢行
この2度目の挑戦となった兵庫GTの前走は地元重賞・園田金盃で、ライジンは初めて地元馬の前に2着に終わった。その敗戦の影響か、この年の兵庫GTは5番人気だったが、結果は昨年と同じく3着。古馬になりJRA勢に挑戦し続けたこの一年で、ライジンは確実に成長したはずだった。それでも立ちはだかる壁を前にこの年が終わろうとしていた。しかし、大みそか、事態は急速に動き出した。
『オオエライジン、南関東へ電撃移籍』
ファンも関係者も、誰しもが驚いた。あまりに突然の出来事に言葉に表せない気持ちだった。しかしこの頃、あまりに強くなり過ぎたライジンは、地元では程よいレースがなく、強い相手や標準的な斤量を求めて全国各地に遠征するしかなかったのだ。南関東へ移籍することでそれらの問題が少しは解決するかもしれない、そんな思いがオーナー側にはあったのだろう。
ところが、移籍初戦に向けての調教中に鼻出血を発症。かくしてライジンは、未出走のまま兵庫へと戻ってくることとなった。