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■第1回「ダメ厩舎」

  • 2015年02月16日(月) 18時01分
 閻魔、落武者、鬼瓦……。ゴリラ、ナマハゲ、大魔神……。子供のころから、ろくなあだ名をつけられたことがない。

 ――まあ、それも仕方がないか。

 と、徳田伊次郎(とくだ・いじろう)は、鏡を見てため息をついた。いつも50歳ぐらいに見られるが、まだ32歳である。

 あっかんべえをして白目を写す。あった。抜けた睫毛が角膜の上で泳いでいる。痛いわけだ。

 こんな小さな毛一本で涙を流す自分のどこが宇宙の帝王ゴアだ、どこが獅子舞だと思うのだが、傍目にはそう映るのだから仕方がない。

 この顔のせいで、ずいぶん損をしてきた。
 
 学生時代、ウエイターやホテルのフロントのバイトをしたかったのだが、すべて面接で落とされた。子供を抱っこしようと近づいただけで「ギャーッ」と泣かれる。

 昨日も、駅前で被災地のペットを助ける募金を呼びかける若者が、伊次郎と目が合うと、「今も苦しんでいるネコちゃん、ワンちゃワワワ……」と唇を震わせた。

 ――ああいうとき「どうしたんだよ、キミ」なんて自然に笑えるといいんだけどな。

 と、鏡に向かって歯を出し、口角を上げてみた。気づいているのはおそらく自分だけなのだが、伊次郎は、子供のころから上手く笑うことができなかった。これは可笑しい、面白い、と感じることはできる。だが、その気持ちを笑って表現することがどうしてもできないのだ。

 周りに合わせ、笑うべき場面では「ワハハ」と声を出し、肩を揺すっている。「キャラに合った怖い笑い方」ぐらいに思われているはずだ。

 もうちょっと笑う練習をしようと頬の肉を持ち上げたとき、鏡のなかで、若村ゆり子と目が合った。

 ここは、南関東のとある競馬場の厩舎。伊次郎は、徳田厩舎を束ねる調教師、若村ゆり子は厩務員である。

 ゆり子は伊次郎を押し退けるように鏡の前に立ち、化粧ポーチから小瓶を出して顔をパタパタやりはじめた。終わるとパイプ椅子に脚を組んで腰掛け、タバコに火をつける。ほかの従業員たちはまだ曳き運動をしているはずだが、彼女の担当馬はどうしたのだろう。

 去年まで、冷蔵庫と物入れが無造作に置かれ、座る場所もなかったこの部屋を整理し、大仲として使えるようにしたのはゆり子だった。伊次郎の指示を無視するときもあれば、この部屋の改装のように、命じられたわけでもないのに自分から熱心に働くこともある。

 ――まったく、何を考えているのやら。

 ヤニで黄色く染まった指でタバコをはさみ、場末のホステスを思わせるガラガラ声で咳払いをするゆり子を見て、伊次郎はきょう2回目のため息をついた。

 伊次郎が、急死した父からこの厩舎を引き継いだのは去年の4月のことだった。

 最初の1年は、従業員にやりたいように仕事をさせることにした。そうして能力と癖をつかみ、伊次郎の色を出していく2年目以降に役立てるためだ。

「今の従業員を使って、勝てる厩舎にしてほしい」、それが父の遺言となった。父は、伊次郎にバトンタッチしたら気が抜けたのか、あっけなく逝ってしまった。

 父の厩舎は典型的な三流で、年間ふた桁勝利をついに一度も達成しないまま終わってしまった。

「馬づくりは人づくりから」である。厩舎を再生する早道はスタッフを入れ替えることなのだが、それをするわけにはいかない。

 徳田伊次郎厩舎には6つの馬房がある。2頭が放牧に出ているので、管理馬は計8頭だ。 従業員は、ゆり子のほかに、男の厩務員がふたりいる。

 そのふたりも、仕事のできなさ加減ではゆり子といい勝負だ。食うために仕方なく厩務員をしているのが見え見えで、伊次郎と同年代の宇野大悟などは、ときどきそれを口に出す。テレビで紹介していた、生活保護を受けながらパチンコに行く男を「いいなあ」と羨ましがり、もうひとりの厩務員と頷き合っていたのを見て、伊次郎は、今のやり方――1年間は彼らの好きにさせて膿を出すことを決めた。

 伊次郎は大仲を出て、途中になっていた管理馬の脚元のチェックを再開した。

 父アジュディケーティングの牝馬の右前に触っていたとき、スマホがバイブでメールの着信を知らせた。アメリカ・ケンタッキー州の飼料業者からだ。

 このダメ厩舎を「伊次郎イズム」で大改革する準備を、彼は着々と進めていた。英語で短く返信した、そのときだった。厩務員の宇野が血相を変えて飛び込んできた。

「先生、やべえ。おれ、やっちまった……」

(つづく)



【登場人物】

■徳田伊次郎(とくだ いじろう)
地方競馬・南関東の調教師。顔は怖いが、気は優しく、実はインテリ。身長175センチ、体重80キロ、胸囲120センチ。脱いだらすごいことが脱がなくてもわかる。

■若村ゆり子(わかむら ゆりこ)
徳田厩舎の若手厩務員。

■宇野大悟(うの だいご)
徳田厩舎の厩務員。30代前半

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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