NARグランプリ表彰式にて幸騎手と小桧山悟調教師(撮影:原山 実子)
記録を作ることも大事だけど、記憶を作って行くことも大事にしていきたい
2月5日に行われたNARグランプリ2014の表彰式。その場所で特別に表彰されたのが、JRAの小桧山悟調教師でした。表彰内容は、交流競走1000回出走という、前人未到の記録です。長年、地方と中央の架け橋となり続けている小桧山調教師に、お話をお聞きしました。
赤見:交流競走1000回出走、おめでとうございます!こういう形で表彰されると予想してましたか?
小桧山:いや、してないですよ。まさか1000回も出走出来るとはね。実質的には19年間ですから、年間55回とか使っていたわけです。一番行った年は110回、13勝したんですよ。昔は賞金も良かったし、同じ仕事をして、競馬の時計が中央より何秒か遅いでしょ。遅いということは馬が痛まないから、疲労度が違うんです。今とシステムが違うから毎週のように使いに行けたし、今は賞金の格差が出ちゃったけど、当時はすべてが中央と同じ賞金で、メリットしかなかったんですよ。中には、「馬主は中央で使いたくて馬入れてるんだぞ、俺は絶対に地方には行かない」って言う人もいたけれど、交流には交流の良さがありますから。
赤見:どうしてそういうお考えになったんですか?
小桧山:初期の目的は、武豊騎手と一緒に地方に遠征に行くことでした。あの当時、武騎手が地方競馬に来るってなると、たくさんのお客さんが来てくれて、駐車場が一杯になるんですよね。例えば船橋の地元重賞がある日に交流競走に乗っていたら、JRAの騎手でも重賞に乗れるじゃないですか。武豊くんがそこに乗りに行くのに、中央の馬で交流に乗ってないと乗りに行けないので、そこでよく頼まれたりして。前に、武豊騎手に乗ってもらおうとした馬が抽選で外れて、もう1頭ミサトロゼっていう馬が入ったのでその馬に乗ってもらったんです(1998年2月11日船橋10R)。その時2着に来てくれて、すごい馬券になったんですけど(馬連22,800円!)、「僕が2着に来て万馬券になるのは小桧山厩舎の馬だけです」って(笑)。
赤見:武豊騎手とは、他の方にはない繋がりをお持ちですよね。
小桧山:僕がまだ助手の頃に、豊くんのアメリカ遠征とか、ジャパンカップのパーティの時とかに通訳もどきをしていたんです。益田の吉岡牧子さんは、僕が調教師になった後もずっと武豊のマネージャーだって誤解してたから、「多分勘違いしてると思うけど、僕調教師なんです」って言ったら、彼女3mくらい飛んでました(笑)
小桧山悟調教師「『多分勘違いしてると思うけど、僕調教師なんです』って言ったら、彼女3mくらい飛んでました(笑)」
赤見:小桧山先生は日本だけでなく、世界の競馬も見ていますよね。
小桧山:競馬の生き字引になりたいという気持ちがすごく強いんです。レースも行けるなら生で見たい。GIレースもほとんど見てるし、あとアメリカのGIも、ブリーダーズカップも初期の頃はずっと行ってて、最後に行った時にもバックスボーイっていう馬が勝った時(1998年ブリーダーズカップ・ターフ)には装鞍とか全部手伝わせてもらったんです。コスモバルクがシンガポールで勝った時(2006年)も、日本からシンガポールに渡った高岡調教師を知ってて、装鞍所とかに入れるパスをもらっていたんですけど、バルクが暴れちゃって鞍が置けないようだったので、装鞍のお手伝いをしたんですよ。そしたらその写真がたまたまインターネットに出て、「何でシンガポールで小桧山がバルクの鞍を置いてるんだ?」ってことになりました(笑)。高知でハルウララに武豊騎手が乗った時にも交流に使ってて、生で見てるんですよ。そこに臨場してないと味わえないことってあるでしょう。現場に行ったことが宝物なんです。
赤見:そしてまた、他の方にはないすごい人脈をお持ちで。
小桧山:僕は競馬ファンだから。競馬を見に行ってると、お互いにいつもいるよねってことになって、いつの間にか親しくなるんです。評価って、「俺が頑張ってるんだ」っていうのは何の価値もなくて、人がしてくれるものでしょう。武くんと一緒にアメリカに行った時に、日本であれだけの成績を挙げていても、誰も乗せてくれなくて。「攻め馬だけでもいいから乗せて下さい」っていう交渉をしていって、そこから結果を出していったんです。そうなると、「来年も来いよ」っていうことになって、彼はアメリカでGIレースに乗せてもらえるようになった。今の若い子たちにも、認めようという気持ちがある人は見てるから、認めてくれっていうんじゃなくて、そういうことの積み重ねなんだよっていう話はしてますね。
赤見:小桧山先生の存在は、地方と中央の大きな架け橋になっていると思います。
小桧山:昔はそれぞれ独立した形でやってて、僕がこのサークルに入った時、地方の騎手が中央の騎手になるなんてあり得なかったですよね。それを安藤さんが突破して、岩田騎手や内田騎手が続いて。全国の地方の騎手と接していると、地方の頂点に立つ人っていうのは周りのバックアップはもちろん、人格が備わってる気がしますね。着順関係なく、競馬に乗ってもらった後のさわやかさ、あれはすごいですよ。
赤見:交流で遠征に行く時は、地元のリーディングに乗ってもらうことも多いですよね。
小桧山:リーディングにはこだわってないんですよ。最初は武豊騎手で全場制覇して、次は地元の騎手でっていう。そこの騎手で勝った写真を厩舎に飾るのが自分の趣味なんです。同じ能力だったら、地元の騎手を乗せた方が有利ですよね。川崎の今野騎手、笠松の東川騎手、北海道の宮崎騎手、浦和の繁田騎手。北関東の時は、宇都宮は鈴木正騎手、高崎は水野騎手、金井騎手、木村騎手に勝ってもらいました。
今回こうやって表彰してもらいましたけど、実は初めて交流を勝つまで2年くらいかかっているんです。一生勝てないんじゃないかって思いましたよ。昔は各競馬場で色んな縛りがあって、中央の騎手しか乗れないとか、長距離遠征の行き方も決まってて、途中で栗東に寄ってはダメとかね。でもその都度ルールに則ってやっていたら、それぞれの競馬場の方々も柔軟性を持って対応してくれるようになって、いろいろ考えてくれるようになりました。そういう意味で中央と地方の架け橋になれたのであれば、すごく幸せです。
赤見:小桧山厩舎といえば、スマイルジャックの存在が大きいと思います。去年川崎競馬場で行われた引退式にも駆け付けてましたね。
川崎競馬場で行われたスマイルジャックの引退式(撮影:島田 明宏)
小桧山:あれも快挙ですよね。スマイルジャックは地方に行って成績を挙げられなかったのに、川崎で引退式をやってくれたという。すごく人気があったからって、主催者の人がやってくれることになったんですけど、僕のことも呼んでくれて…。山崎先生と僕と、厩務員さんも美浦での担当者と川崎の担当者と2人で引っ張って。自己満足かもしれないけど、本当に有難かったです。
赤見:では、今後の目標を教えて下さい。
小桧山:実は地方の重賞を勝ってないんですよ! ダートは強い馬が出ると息が長い分、新しい馬が出走するのが難しいんです。1個勝ったらずっと出走出来るんで、なんとかそのラインに乗せたいですね。それから、前人未到の交流100勝! 交流競走は当日輸送か前日か、下手したら3日も乗らないで競馬の可能性もありますから、人が慣れていないとダメなんです。その点、うちのスタッフはどこの競馬場がどうっていうのがみんなわかってますから、何も怖いものはないですね。そこに馬の適性と能力を合わせていければ。記録を作ることも大事ですけど、競馬は記憶のスポーツでもありますから、そういう記憶を作って行くことも大事にしていきたいです。