【前回までのあらすじ】
容貌魁偉の調教師・徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で6馬房の厩舎を構えている。厩舎は三流で、従業員は無気力。伊次郎は厩舎改革にとりかかり、馬の仕上げ方を変えた。担当厩務員のゆり子を弾き飛ばすほど過敏になったシェリーラブが、改革後の1番手としてレースに出ることになった。
「逃げ宣言」をしたシェリーラブは、よりによって大外12番枠を引いた。
「先生、この枠からでも、ハナに行かなきゃダメですか」と藤村。
伊次郎が厩舎改革を断行してから初めて臨む実戦のパドックで、小心者の主戦騎手は、跨る前から弱気になっている。
「行っちゃえ、行っちゃえー」と、曳き手綱を持つゆり子が、伊次郎が口をひらく前に言った。3日前まで、シェリーラブに合わせて減食してゲッソリしていたのに、今は別人のように丸い顔をしている。急にドカ食いしてムクんだようだ。
「出鞭を入れてでも、とにかく単騎で行け」と伊次郎は藤村の脚を抱え、鞍上へと持ち上げた。
「はい……」
「溜め逃げはするな。体が伸び切ってもいいから、オーバーペース気味に行くんだ。そして、前に言ったように、ゴール前50メートルでバタバタになるイメージだ」
「はあ」
「間違っても、ゴールできっちりスタミナを使い切るような乗り方はするなよ」
「……でも、先生の指示どおりの競馬では勝てないと思います」
「結果は、あとでついてくるものだ。今は勝ち負けを考える段階じゃない。頼むぞ」
「わかりました」
半分不服そうに、半分寂しそうに答えた藤村の背中を見て、伊次郎は思った。ひょっとしたら藤村は、厩舎を開業してから一勝もしていない伊次郎のために、なんとか勝ちたい、勝たなければいけない、と思っているのかもしれない。
――今はその気持ちだけありがたくもらっておくぞ、藤村。
このシェリーラブもトクマルもほかの管理馬も、みな、まず1600メートル戦を使い、次に1500メートル戦、1400メートル戦と100メートルずつ距離を縮めていくつもりだ。
逆に、距離を延ばしていくほうが、初戦より2戦目、2戦目より3戦目と逃げやすくなるように思われるが、それは、もともとスピードのある馬だけに当てはまることだ。
伊次郎の管理馬でそれをやると、最初の1400メートル戦でハナを切れずに揉まれたり砂をかぶるなどして、馬が走ることを嫌がるようになったり、傷ついたメンタル面のケアから次走の準備を始めなければならなかったり……というリスクのほうが大きくなる。
ならば、ハナを切りやすい距離から使い、人馬ともに群れの先頭を行く爽快感と、競馬をつくる面白さを味わって、次もそれを求めるよう仕向けるほうがいい。
――大外枠というのは、うちの馬にとって、むしろ好都合かもな。
出遅れた場合、内枠ならつつまれて出られなくなってしまうが、外枠なら、途中からでもハナを奪うことができる。
シェリーラブは前走からマイナス12キロの446キロ。それでも、腹が巻き上がっていることもなければ、トモが寂しく見えることもない。
ときどき尻っ跳ねして藤村の手を煩わせながら、出走馬の最後に、12番枠に入った。
ゲートがあいた。
と同時に、スタンドがどよめいた。シェリーラブが大外から弾むように飛び出し、最初の数完歩で1頭だけ、1馬身以上前に出たからだ。
「すごいロケットスタート! 先生、何かしたんですか?」と、ゆり子が目を丸くしている。
「何もしていないのは、お前が一番よくわかっているだろう」
「じゃあ、どうして……」
「藤村の腕さ」
「まさか……」と、ゆり子とセンさんと宇野夫妻が同時に言った。彼らは藤村の馬乗りの技術が、実は南関東トップクラス、いや、日本トップクラスであることに気づいていないらしい。
シェリーラブは、スタンド前で、後続との差を2馬身、3馬身とひろげていく。
藤村は、ハミを軽く噛ませたり、外したりしてシェリーラブとコンタクトをとりながら、コンマ1秒単位でラップを計算している。
他馬から離れて、自分の馬のコントロールだけに専念すると抜群に上手い。
1コーナーを左に曲がり、単騎逃げのまま向正面に入った。シェリーラブは4馬身ほどのリードを保っている。2番手以下の11頭は比較的かたまっている。ということは、流れはさほど速くないということだ。
――藤村、変な欲を出すなよ。
眉間にしわを寄せた伊次郎のひと睨みが届いたかのように、藤村は拳ひとつぶん手綱を詰めて持ち、シェリーラブにさらに行くよう促した。
3、4コーナーを回りながら、後ろを引きつけるのではなく、さらに差をひろげるべく藤村の手が動いた。
徳田厩舎の牝馬など取るに足らぬとバカにしていた後続の騎手たちのアクションも急激に大きくなった。ほとんどの騎手が直線に入る前に鞭を入れている。
伊次郎は、左前方の直線入口に目を凝らした。
先頭のシェリーラブが、2番手に5馬身ほどの差をつけて300メートルの直線に入った。そして、左手前から右手前にスイッチした。藤村は、すぐさま鞭を左に持ち替えた。埒を頼りすぎて、内に刺さらないようにするためだろう。
シェリーラブが軽快に逃げる。ひょっとしたらこのまま……と思われたのはしかし、一瞬だった。
2番手集団のなかから、リーディング上位の矢島が乗る本命馬が伸びてきた。
――チッ、またあの野郎か。
以前、シェリーラブが溜める競馬をして2着に惜敗したとき、勝った馬に乗っていたのも、この矢島だった。南関東のホースマンで伊次郎の次に人相が悪いと言われているベテランである。
矢島は躍るように尻を上下しながら鞭を連打し、差を詰めてきた。
ラスト200メートル。馬場の真ん中を豪快に伸びる矢島の馬が、シェリーラブとの差を3馬身ほどに縮めた。
――まあいい。今回は、ラスト50メートルまでリードを保つことができれば、次につながる。
シェリーラブは、まだスタミナを使い切っていない。首を大きく使い、自分の走りをしている。
ラスト100メートル。矢島の馬が1馬身半ほど後ろまで迫ってきた。
「ウオオオーッ!」と叫ぶ矢島の声が聴こえてきそうなほどの迫力だ。
シェリーラブのストライドが、ほんの少し小さくなった。
矢島の馬が1馬身、3/4馬身、半馬身……と近づき、馬体を併せたところが、ちょうどラスト50メートル地点だった。
――ここまでか。よし、藤村もシェリーラブもよくやった。
伊次郎は小さく頷き、馬を迎えに行くべく下に降りようと立ち上がった。
そのときだった。藤村の両拳がほんの一瞬、鋭く交差するように動いた。
「藤村、お前、何を……!?」
(つづく)
【登場人物】
■徳田伊次郎(とくだ いじろう)
地方競馬・南関東の調教師。顔は怖いが、気は優しい。小さいころから上手く笑うことができない。身長175センチ、体重80キロ、胸囲120センチ。近代競馬の黎明期に活躍した「ヘン徳」こと徳田伊三郎・元騎手の末裔。
■若村ゆり子(わかむら ゆりこ)
徳田厩舎の若手厩務員。元ヤンキー。
■宇野大悟(うの だいご)
徳田厩舎のぐうたら厩務員。30代前半。
■宇野美香(うの みか)
宇野の妻。徳田厩舎の新スタッフに。
■仙石直人(せんごく なおと)
徳田厩舎ののんびり厩務員。56歳。ニックネームはセンさん。南部弁で話す。
■藤村豊(ふじむら ゆたか)
徳田厩舎の主戦騎手。顔と腕はいいが、チキンハートで病的に几帳面。
■矢島(やじま)
人相の悪いベテラン騎手。リーディング上位の豪腕。