スマートフォン版へ

■第26回「競り合い」

  • 2015年08月10日(月) 18時00分
【前回までのあらすじ】
容貌魁偉の調教師・徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で6馬房の厩舎を構えている。厩舎は三流で、従業員は無気力。伊次郎は厩舎改革にとりかかる。その1番手としてレースに出た牝馬のシェリーラブが軽快に逃げ切り、厩舎初勝利を挙げた。次に出走したトクマルは最後に外にヨレて2着。急にレースぶりがよくなった徳田厩舎に売り込みをかけてきた一流騎手の矢島を、伊次郎は初めて起用することにした。



 担当馬のトクマルに乗る矢島の口から「パンク」という言葉が出た瞬間、センさんの表情が変わった。

「矢島よォ、おめえ、一流と言われる乗り役なら、そったらこと簡単に言うでねえ」
「ほかの厩舎では言わねえよ」
「どういう意味だ」とセンさん。

「豪腕というイメージのおかげで、馬が壊れたらいつもおれのせいにされる。だが、ここの調教師は公言しているだろう。レース中の故障の責任はすべて調教師にある、と」

 矢島の言葉に伊次郎が頷いた。

「そのとおりです。要は、矢島さんは、調教師がハンパな仕上げをしない限り、1戦だけで降りることはない、と言いたいんですね」
「そういうことだ」

「だったら、最初っからそう言えばいいべさァ」とセンさんが眉間のしわを消した。

 美香が矢島にアイスコーヒーの「ほころびブレンド」を出した。ストローに口をつけた矢島は、それを「チューッ」と、ひと吸いしただけで飲み尽くした。

 しかし、誰も驚かない。首を傾げた矢島は、伊次郎が同じように「チューッ」とストローを一度吸っただけでコップを空にするのを見てニヤリとした。肺活量がだいたい6000cc以上ないとできない荒ワザなのだが、それに関しては、南関東を代表する悪人顔の二大巨頭は互角のようだ。

「なあ、徳田のテキよ」と矢島。
「はい」
「お前さん、これからも全部の管理馬に逃げる競馬をさせるつもりか」

「ええ、しばらくつづけます」
「ということは、だ。5日の競馬では、おれに対しても、藤村に対しても、『行け』という指示を出すわけか」

「はい……と言いたいところですが、私のような三流調教師が、天下の矢島力也騎手に指示を出すわけにはいかないでしょう」
「ほう、いい競馬をするようになったら、お上手まで言えるようになったか」
「ただ……」

「ただ、なんだ?」
「クノイチは、ハナに立とうとするはずです。行きたがるように調教していますから」
「そうか。なら、つぶし合うか、譲り合うかは、ゲートがあいてから、そこの男前の出方次第で決めるとするか」と矢島は親指で背中の後ろを指した。

「そこの男前……?」と伊次郎が怪訝そうに言うと、ふてくされたような顔をした藤村が入ってきた。
「どうしてこいつがいるってわかったんスか?」と宇野が目を丸くした。

「この矢島力也はな、尻の穴にも目がついてる、って言われてるんだ」と答えたのはセンさんだった。
「何それ」とゆり子が顔をしかめた。
「そのくらい、後ろも周りもよく見ながらレースをしてる、っちゅうことだべさ」

「ねえ、藤村君はどうしたいの? ムーちゃんを行かせるの、それとも……」
 ゆり子に訊かれ、藤村は首を横に振った。

「この場では言いたくありません」
「ほう、面白い」と、矢島が片方の眉を上げ、コップに残った氷を口に放り込んだ。

 まるで双子のように、伊次郎も同じ仕草で同時に氷を口に入れた。

 人相の悪いふたりが「ガリッ、ゴリッ」と氷を噛み砕く音が、狭い大仲に響いた――。

 藤村のシェリーラブは、勝った前走とは対照的に、最内枠の1枠1番を引いた。

 矢島のクノイチはほぼ真ん中の5枠6番。

 ――さあ、シェリーラブとクノイチのどちらがハナを奪うか。

 伊次郎にもまったく展開は読めない。しかし、そのぶん、フタをあけたらどうなるかという楽しみがあった。

 横に座ってスターティングゲートを見つめているセンさんは、貧乏ゆすりをして落ちつかない。その隣にいるゆり子はあくびをしている。余裕なのか。いや、案外一睡もできなかったのかもしれない。

 ゲートがあいた。12頭の出走馬がダート1500メートルのコースに飛び出した。

 シェリーラブもクノイチもポーンと速いスタートを切った。

 藤村は、天性のやわらかな当たりでシェリーラブを伸び伸びと走らせている。

 一方の矢島は、出鞭を入れるわ、見せ鞭をするわ、ゴール前のように手綱をしごくわ……と、派手なアクションでクノイチをさらに前に行かせようとしている。

 シェリーラブとクノイチの2頭が並走し、3番手以下をどんどん引き離していく。

 ――矢島さん、何も、そこまで激しく競りかけなくてもいいじゃないか……。

 伊次郎は頭を抱えた。

(つづく)



【登場人物】

■徳田伊次郎(とくだ いじろう)
地方競馬・南関東の調教師。顔は怖いが、気は優しい。小さいころから上手く笑うことができない。身長175センチ、体重80キロ、胸囲120センチ。近代競馬の黎明期に活躍した「ヘン徳」こと徳田伊三郎・元騎手の末裔。

■若村ゆり子(わかむら ゆりこ)
徳田厩舎の若手厩務員。元ヤンキー。鳴き声から「ムーちゃん」と呼んでいるシェリーラブを担当。

■宇野大悟(うの だいご)
徳田厩舎のぐうたら厩務員。30代前半。トクマルを担当。

■宇野美香(うの みか)
宇野の妻。徳田厩舎の新スタッフに。

■仙石直人(せんごく なおと)
徳田厩舎ののんびり厩務員。56歳。ニックネームはセンさん。南部弁で話す。クノイチを担当。

■藤村豊(ふじむら ゆたか)
徳田厩舎の主戦騎手。顔と腕はいいが、チキンハートで病的に几帳面。

■矢島力也(やじま りきや)
人相の悪いベテラン騎手。リーディング上位の豪腕。

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

バックナンバー

新着コラム

アクセスランキング

注目数ランキング