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■第28回「問題」

  • 2015年08月24日(月) 18時01分
【前回までのあらすじ】
容貌魁偉の調教師・徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で6馬房の厩舎を構えている。厩舎は三流で、従業員は無気力。伊次郎は厩舎改革にとりかかる。まずは牝馬のシェリーラブが厩舎初勝利を挙げ、次に出走したトクマルは惜しい2着。急にレースぶりがよくなった徳田厩舎に売り込みをかけてきた一流騎手の矢島を、伊次郎は起用する。そのレースで、矢島は激しく僚馬に競りかけたが、実は、後続を欺くために「追うふり」をしていただけだった。



 藤村のシェリーラブが、矢島のクノイチより半馬身ほど前に出たまま最後の直線に入った。男前の若手が乗る内の芦毛馬と、悪人顔のベテランが乗る外の黒鹿毛馬は、スタンドから見ると、その好対照ぶりがいちだんと目につく。

 今はもう矢島は追うふりをしていない。手綱をガチッと抑えたままシェリーラブの外に併せ、その差を首、頭、鼻……と縮め、完全に横並びになった。

 2頭のストライドが完全に重なった。

 ダカダン、ダカダン……と完歩を伸ばすリズムはまったく一緒だ。

 ――こうしていると、どちらも伸びるぞ。

 と矢島が、クノイチだけではなく、内の藤村とシェリーラブにも語りかけながら乗っているかのように見える。

 ダカダン、ダカダン……。

 5馬身以上後ろにいる3番手以下の馬たちは、2頭の徳田勢との差を詰められずにいる。

 藤村が手綱を操作し、シェリーラブの手前を左に替えた。一致していた2頭の完歩がわずかにズレた。次の瞬間、伊次郎は思わず「あっ」と声を上げた。

 鞍上の意思なのか、それとも鞍下、つまり馬の本能なのかはわからないが、また2頭が完歩を合わせたとき、いや、合わせようとしたとき、伊次郎も予期していなかった齟齬が生じた。

 ダカダン、ダカダン……。

 蹄音のリズムは一致しているのに、シェリーラブが後退して……いや、外のクノイチがじわじわと前に出ていくのだ。

 得意の左手前に戻したぶん優位にレースを進められるはずだったシェリーラブの藤村の焦りが伝わってくるかのようだった。

 ――なぜだ?

 と自問したのは、見た目の答えがあまりに明らかだったからだ。

 伊次郎は、大きく目をしばたたき、もう一度2頭の走りに意識を集中した。

 やはり、そうだ。

 クノイチのほうがシェリーラブよりストライドが大きい。それも、かなりの差がある。

 ラスト200メートルを切った。

 クノイチのストライドの伸びやかさはまったく変わらない。矢島の肘の屈伸に合わせて馬体を伸縮させ、矢島の肘が伸び切ったとき、クノイチの前肢と首も水平に伸び切っているかに見える。

 ――あんなに体のやわらかい馬だったとは……。

 隣に座ったセンさんは、顔を伊次郎に向けたまま口をあんぐりとあけ、横目で担当馬の走りを見つめている。

 その向こうのゆり子は、両手を口にあてて眉を「ハ」の字に下げ、今にも泣き出しそうな顔をしている。

 ラスト100メートルを切ったときにはもう勝敗は明らかになっていた。

 クノイチが半馬身以上前に出ている。

 シェリーラブの藤村は、勝った前走同様、長手綱で支点をつくらずに追い、シェリーラブが体を使いやすいようにしながら鞭で叱咤しているが、じりじりと置かれていく。

 そのときだった。矢島がクノイチの背で急にガニ股になり、下半身全体で馬を前に押し出すような追い方をした。すると、クノイチのダカダン、ダカダン……という蹄音が、ダガダーン、ダカダーン……と間延びした。

 脚の回転がゆっくりになったにもかかわらず、クノイチのストライドはさらに大きくなり――。

 クノイチは、シェリーラブを1馬身半ほど置き去りにしてゴールした。伊次郎が調教師になる前に初勝利を挙げて以来、ほぼ1年ぶりの2勝目である。

 徳田厩舎勢のワンツーフィニッシュは、父子を通じて初めてのことである。

 検量室前に戻った矢島は、下馬して伊次郎の胸を拳でゴンと叩いた。

「いい馬だ。コイツはもっと走ってくる」
「ありがとうございます」

「ただ……」と矢島は声を小さくした。
「はい?」
「ちょっと厄介な問題を抱えている。それはあとで話す」と検量室に消えた。

 このやりとりは誰にも聞かれなかったようで、センさんは感激のあまり、顔をクシャクシャにして泣き、ほかの厩舎のスタッフからも祝福されている。

 ――厄介な問題……?

 センさんに差し出された右手を握り返しながら、伊次郎は考え込んでしまい、「フーーーッ」と、太く、長い鼻息を漏らした。

(つづく)



【登場人物】

■徳田伊次郎(とくだ いじろう)
地方競馬・南関東の調教師。顔は怖いが、気は優しい。小さいころから上手く笑うことができない。身長175センチ、体重80キロ、胸囲120センチ。近代競馬の黎明期に活躍した「ヘン徳」こと徳田伊三郎・元騎手の末裔。

■若村ゆり子(わかむら ゆりこ)
徳田厩舎の若手厩務員。元ヤンキー。鳴き声から「ムーちゃん」と呼んでいるシェリーラブを担当。

■宇野大悟(うの だいご)
徳田厩舎のぐうたら厩務員。30代前半。トクマルを担当。

■宇野美香(うの みか)
宇野の妻。徳田厩舎の新スタッフに。

■仙石直人(せんごく なおと)
徳田厩舎ののんびり厩務員。56歳。ニックネームはセンさん。南部弁で話す。クノイチを担当。

■藤村豊(ふじむら ゆたか)
徳田厩舎の主戦騎手。顔と腕はいいが、チキンハートで病的に几帳面。

■矢島力也(やじま りきや)
人相の悪いベテラン騎手。リーディング上位の豪腕。

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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