ホースマンの道は様々である。トップを歩む者、戦う場所を変える者、虎視眈眈と上を狙う若手…。そんな中、自らの生きる道を求めるふたりのホースマンを取材した。
一人目は三村展久騎手(高知)。福山のトップ騎手が、廃止を機にもがく日々を送っている。三村騎手が再び輝く姿を待つファンからの取材リクエスト。彼の本音、覚悟に迫った。
そして二人目は、高嶋活士元騎手(JRA)。デビューから2年後の落馬事故により引退。騎手としての人生は短かったが、現在は東京パラリンピックを目指す障がい者馬術の選手として活躍。新たなステージで再起をかける、ふたりの姿に迫る。
(※掲載スケジュール:三村騎手は11月30日、高嶋元騎手は12月1日。2日連続で公開します)
競馬学校時代には模擬レースで総合優勝を果たし、その資質の高さからもジョッキーとして前途有望かに思われていた高嶋活士。だがプロの道は厳しく、同期が次々と勝ち名乗りを上げる中、高嶋1人だけが初勝利に手が届かずにいた。やがて高嶋は、1勝の壁を乗り越えるべく、障害レースにも挑戦を始めた。初勝利に近かったレースもあった。壁を乗り越える日も近いと思われたある日、アクシデントが待ち受けていた。2013年2月9日、障害レースで落馬。意識不明のまま病院に運びこまれたのだ。幸い意識は回復したものの、脳挫傷による後遺症で右半身に麻痺が残った。懸命のリハビリが続いたが、2015年9月30日、ついに引退が発表された。その高嶋は今、再び馬上にいる。見据えた先には、2020年東京パラリンピック出場という大きな目標があった。(取材・文:佐々木祥恵)
病院のベッドの上で目覚めたのは、事故から1週間後
競馬をほとんど知らなかった高嶋が、ジョッキーを目指したのは父の勧めだった。
「動物全般が好きでしたから、動物園の飼育係とか動物系の仕事に就きたいとか思っていたので、騎手の道も良いかなと…」 当時千葉県市原市に住んでいた高嶋が騎手を意識して初めて馬に乗ったのは、同県内にある長谷川ライディングファーム。14歳の時だった。
「段々うまくなっていくことが楽しかった」という高嶋は、馬に乗るおもしろさに目覚め、競馬学校にも無事合格する。
「学校では馬に乗っていればいいのかと思っていたら、競馬法など専門的な勉強がたくさんあって、元々勉強が苦手だったので、よく補習を受けていました」と苦笑いする高嶋だが、模擬レースでは総合優勝を果たし、実技では優秀な成績を収めた。
デビュー戦は2011年3月5日、オペラフォンテンで臨んだ3歳未勝利戦での4着。初騎乗で掲示板は悪くないスタートにも思えた。
「レースの質が、模擬レースとは全く比べものにならなかったです。模擬レースは実戦に比べれば緩い感じで、競馬もしやすいですけど、実際のレースでは頭数も違いますし、みんなタイトに回ってきますから」と高嶋はデビューを振り返った。
その後、同期が次々と初勝利を挙げていく中、1人、勝てない日々が続き、1勝をすることの難しさを味わっていた。
やがて高嶋は、障害レースにも騎乗するようになった。
「楽しそうというイメージを持っていたんで、乗ってみないかと調教師に言われてやってみようと思いました」 2012年3月3日の障害デビュー戦は、飛越に問題のない安心して回って来られる馬に騎乗したが
「第1障害はもうソワソワしました」と本人も振り返るが、やはり緊張はあったようだ。
▲2013年1月13日500万下、トーセントレジャーに騎乗し惜しくも2着 (C)netkeiba.com
その後も平地と平行して障害レースに騎乗を続け、初勝利を目指した。だが高嶋に悲劇が待っていた。2013年2月9日、東京競馬場の障害未勝利戦。高嶋はアバディの馬上にいた。
「飛びが危なっかしい馬でしたけど、段々良くなってそろそろ行けるかなと考えていた時でした」 1週目8号障害の着地で馬が転倒し、落馬。高嶋は馬場に叩きつけられ、意識を失った。脳挫傷と鎖骨骨折の重傷を負った高嶋が、病院のベッドの上で目覚めたのは事故から1週間後のことだった。
「記憶はレース前日の金曜日からなくて、落馬も覚えていないんです。落馬はあとからVTRで見ましたけど、やっぱりやったなというそんな感じでした」右半身の麻痺が馬に見抜かれてしまう
「ジョッキーに戻れると思っていた」という高嶋は、復帰を目指してリハビリを開始し、馬に乗れるところまで辿りついた。しかし脳挫傷の後遺症による麻痺が右半身に残ったままだった。
「調教鞍を用意して、競走馬の調教のような感じで乗っていたのですけど、右半身をうまくカバーできなくてそれを馬に見抜かれてしまうんです。馬は賢いですから、何かやってやろうとか、僕の弱みに付け込んでくるんですよね。乗馬ならまだしも、競走馬となると、2歳や3歳のまだ若い頃の調教で、そういう悪いことを教えてしまうのは馬にも良くないですし、それで復帰は諦めました」 高嶋は気持ちを切り替え、馬とは違う世界ものぞいてみようと障がい者向けの職業訓練所に通って勉強を始めた。
そんな折、同じく落馬負傷で騎手を引退した常石勝義が、馬術で2020年の東京パラリンピックを目指すというニュースを目にする。
「そういう道もあるんだなと。どうせ馬に乗るなら、勝負してみたいなと思って、自分もやり始めました」 馬術競技は障害飛越、馬場馬術、総合馬術に分かれているが、パラリンピックでは馬場馬術競技が採用されている。長方形の馬場内で、決められた課題をいかに正確に美しく馬を動かすことができるかを競うのが馬場馬術競技で、馬の調教進度や人の技術によってクラス分けがされている。
高嶋がパラリンピックを目指すと決めたのはおよそ1年前。日本ではまだ障がい者だけの競技会は少ないため、高嶋は一般の競技会に出場して経験を重ねた。
全国障がい者馬術大会で優勝
競技を始めた当初は、障がい者の競技会でも優勝はできなかったが、今年10月28日〜30日までの3日間、に兵庫県の三木ホースランドパークで行われた全国障がい者馬術大会では、見事優勝している。
「3日に渡って競技があって、すべて1位でした。3日間とも60%超えていましたから、数字的にも悪くなかったかなと思います。特に最終日はフリースタイルと言って、自分で選曲した音楽に合わせて、決められた課題を自由に組み合わせて演技をするのですが、国際ジャッジの方が70%をつけてくれたんです。その方はオリンピックやパラリンピックでも審査員をしていると聞いていますし、70%を付けて頂いたのは自信になりました」▲三木ホースランドパークで行われた全国障がい者馬術大会(提供:高嶋活士元騎手)
馬場馬術は、複数の審査員が採点し、その点数が合計されてパーセント化される。65%を超えれば割と点数が高いと言われる中、70%超えはかなり高い評価であり、東京パラリンピック出場に一歩近づいたともいえよう。
その後、高嶋は11月3日馬事公苑で行われたサンクスホースデイズで、たくさんの観客を前に演技を披露している。
「馬が慣れていなくて、ソワソワしていましたけど、馬事公苑はこれから2020年に向けて改修工事に入りますし、その前に演技ができたのは良かったと思います」 しかし課題もある。
「麻痺があって右足が弱いのですが、もう少し右足を使って馬に合図を送れたらと思います。あとは乗っているうちにどうしても手綱が伸びてきてしまって。ただそれを直すのも右手だけではできず、左手でカバーしながらするしかないんですよね。右手で鞭はあまりうまく使えないですから、そのあたりをどうにかしていきたいです」▲馬事公苑のサンクスホースデイズでの演技披露(提供:高嶋活士元騎手)
その課題を乗り越えるため、そしてさらなる技術の向上を目指して、埼玉県にあるドレッサージュステーブルテルイに籍を移した。これまで週1、2回しか練習できなかったが、ほぼ毎日、馬に乗れる環境が整った。5月に入籍して人生の伴侶を得た高嶋だが、全国障がい者大会を前にした10月、女の子が誕生した。新しくできた家族が、励みになっていることは間違いないだろう。
勝利を手にできないまま競馬の世界を去った高嶋は今、再び馬の上にいる。パラリンピックという栄光の舞台に立つことを夢見て。
(文中敬称略、つづく)
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