“粘り強さと諦めない心”引退馬協会の信念に後押しされて
競走馬は引退したらどうなるのか。ヨーロッパ遠征を前に日経新春杯で骨折したテンポイントのニュースがきっかけとなって、あっという間に競馬にのめり込んだ小学校5年当時は、考えもしなかった疑問が、ある時ふと頭をもたげた。
おびただしい数の競走馬が全国で走っている。種牡馬や繁殖牝馬となれるのは、ごく一部。それ以外の馬たちが、寿命を全うできる場所はないということに気づくのに時間はかからなかった。それに気づいた時は、何とも言えない虚しさに襲われた。それでもなぜか馬から離れられず、競馬ファンを辞められなかった。馬たちの命の多くが闇へと葬られていく現実を知りながら、後ろめたい気持ちに蓋をして競馬に関わり続けた。なぜ競馬から離れられなかったのか。理由は自分にもわからない。けれども、その後ろめたさだけは、自分の中でどんどん大きくなっていった。
ライターになってからは、競馬関係のコラムや馬主のインタビュー記事を書きながら、後ろめたさに蓋をする日々が続いた。そんな中で出会ったのが「イグレット軽種馬フォスターペアレントの会」、現在の「認定NPO法人 引退馬協会」だった。事務局のある乗馬倶楽部イグレットを訪ねて、代表の沼田恭子さんにも話を伺った。引退した馬たちの里親制度を始めて、さほど経っていない頃だったと記憶している。
フォスターホースの牝馬のハリマブライトと触れ合い、ものすごく優しい気持ちになったことを今でもよく覚えている。ハリマブライトは、笠松競馬場で走っていた馬で、血統も成績も地味であったが、こうして人々の愛に包まれて生きている。彼女を支える里親さんもいるのだと聞いて、人間のために頑張ってきた馬たちすべてに、このような穏やかな馬生が用意されていればいいのにと心から思った。
けれども引退馬関連の仕事は、流星社の「『あの馬は今?』ガイド 2002-2003」で1度した以外は、具体的な行動を起こせず時間だけが過ぎていった。その間、実際に馬を引き取ったり、ある馬を第二の馬生に橋渡しをするなど、具体的に動く馬友達も現れた。その馬友達の行動力にも刺激され、馬を引き取るまでの経済力はないけれど、引退した馬を取材して多くの人に現状を伝えたいという気持ちが高まってきた。そんな折、netkeiba.comにご縁ができ、チャンスを見つけては引退した馬関連のニュースを寄稿してきたことが、このコラムへと繋がったのだった。
コラムの連載を開始してからは、引退馬協会の活動や関係している馬たちのコラムを書く機会が増え、代表の沼田さんに何度もお話を伺った。お忙しい身でありながら、いつも丁寧にわかりやすく説明をしてくださる。
その引退馬協会の活動を伝える『馬の命を守れ!〜引退馬協会活動記録〜』という書籍が出版されたのは、昨年11月。そこには乗馬倶楽部イグレット設立から引退馬協会立ち上げ当時の紆余曲折を始め、フォスターホースを初めとする馬たちの素顔や人々のエピソードなどがたくさん詰まっている。
▲『馬の命を守れ!〜引退馬協会活動記録〜』
どの章も心に深く響いた。引退した馬たちを心配しながら、何の行動もしてこなかっただけに、耳の痛い話ばかりだ。特に響いたのは、6章から10章に描かれた東日本大震災で被災した馬たちとの関わりだった。
私自身、当コラムで東日本大震災で被災した乗馬クラブや馬たちを紹介してきたが、取材をするたびに想像を絶する現実が被災地にはあったのだと、思い知らされて、衝撃を受けてきた。けれどもこの本を読んで、いかに被災地が切羽詰まった状況にあったのか、いかに馬も人もギリギリのところで命をつないでいたのかを知るにあたり、少し取材をしただけで理解した気になっていた自分の認識の甘さを改めて突きつけられたのだった。
人命が優先されても仕方ない状況で、行政にかけあい、放射能に汚染された危険な現場まで出向き、被災した馬たちの救済に行動を起こす。被災地において引退馬協会の働きがいかに大きかったのか、手に取るようにわかった。
もちろんうまくいかないこともある。助け出したのに預けた先で馬が亡くなってしまうという苦い経験もあった。それでも、馬の命を守るためにスタッフや支援者、理解者たちとともに、引退馬協会は今も着実に前に進んでいる。その粘り強さ、諦めない心こそが、20年にも渡って引退馬協会が活動を続け、認知され、信頼される理由なのだと再認識した。
本を読み終えた私の心はザワついていた。命を繋いだ馬たちの後ろには、必ず行動を起こした人がいる。その人たちの熱い気持ちが、厳しい現実をも変えていく。それに比べて自分はどうだろう。これまで余生を過ごさせてあげたかった馬は何頭もいたけれど、1頭たりとも実現してない。橋渡しすらできていない。忸怩(じくじ)たる思いになった。そんな私がやがて大きな決断をすることになるのだが、その後押しをしてくれたのは、この本だった。
フェイスブックの一言で運命が動き出した
キリシマノホシという牝馬がいる。2006年4月4日に宮崎県の土屋君春さんの牧場で生まれた九州産のサラブレッドだ。父はサイレントハンター、母はラッキービクトリー、その父はDynaformerという血統で、栗東の橋口弘次郎厩舎から2歳の7月に、小倉競馬場の九州産馬限定の新馬戦でデビューして3着。2戦目、3戦目も3着が続いた。
▲九州産のサラブレッド・キリシマノホシ
前半はややついていけない恰好で走っているが、いずれも直線で脚を伸ばしてくるというレースをしていた。九州産限定競走では掲示板にのる好走を続けながらも勝てず終わり、3歳になってからは美浦の二本柳俊一厩舎へと転厩した。
キリシマノホシの担当となったのは、かつて藤沢和雄厩舎でゼンノロブロイやゼンノエルシドなどを手掛けた川越靖幸厩務員だった。「小さくて大人しくて真面目な馬」というのが、川越厩務員のキリシマノホシの印象だ。
小倉、中京、福島、新潟と遠征をこなしたが、なかなか良績は残せなかった。夏は札幌競馬場に移動して滞在競馬となった。札幌に着いた当初には390キロ台まで減っていた馬体重も徐々に回復して、調子は上がっていた。しかし能力差は埋めることはできず、8月末の門別での交流レースを最後に中央の競走馬登録を抹消して、地方競馬へと移籍していった。
▲2009年2月21日の小倉の未勝利(10着)時、曳いているのが川越厩務員
▲2009年6月21日の札幌の未勝利(9着)時
キリシマノホシの競走馬としての第二の舞台は園田競馬場で、初勝利は移籍後3戦目だった。4歳になってすぐに2勝目を挙げ、それからは好走と凡走を繰り返しながらも、ほぼ月2回のペースで走り続けた。キリシマノホシが5歳になった2011年、中央時代に担当していた川越厩務員は競馬場を去り、新たな道を模索し始めた。それでもキリシマノホシは、与えられた舞台で、黙々と競走馬としての使命を果たし続けた。
私はライター業をこなしながら競馬の世界から離れた川越さんの新たな仕事の手伝いもしていたのだが、密かにキリシマノホシの成績もチェックしていた。川越さん自身は馬には一切関わらないというスタンスだったので、キリシマノホシが話題にのぼることはなかった。6歳、7歳、8歳、9歳…。キリシマノホシはなおも現役だった。相変わらず、月に2回の割合で、出走している。成績を見返すと、1度も休養がなかった。よほど丈夫なのだろう。
2016年、キリシマノホシはとうとう10歳になった。ここまで来ると、今度はいつ競走馬登録を抹消されてしまうのかが気になってきた。10歳の前半は4着や2着もあり好走もしていたが、やがて掲示板に載ることもなくなった。年齢を考慮しても、そろそろ引退が近いような予感がしていた。
一方、馬と距離を置いていた川越さんも、ある乗馬クラブの馬をグルーミングする機会があり、それがきっかけとなってグルーミング教室の講師や乗馬の馬主からの依頼でグルーミングを行うなど、再び馬に携わるようになっていた。「馬も、馬の手入れも好き」ということを、川越さん自身、再確認したようだ。
その川越さんに、かつての担当馬が10歳でまだ現役で、もう180戦以上走ってきているが、そろそろ引退ではないかという話をした。キリシマノホシは、藤沢和雄厩舎時代に担当した華々しい成績を残した馬たちに比べれば、血統も成績も地味な馬だ。繁殖に上がる可能性もゼロに近い。私たちが手を差し伸べなければ、キリシマノホシの命は絶たれてしまう。引退した先にどうなるかは、容易に想像できた。
経済的に決して余裕があるわけではないけれど、将来グルーミング教室のモデルとして一緒に仕事ができればという考えもあり、引き取りたい旨を川越さんが手紙にしたためて厩舎に送った。だがほどなくしてキリシマノホシは競走馬登録を抹消されていた。手紙は間に合わなかったのかもしれない。暗澹たる気持ちになった。
探そうか探すまいか…。探すにしても、どうしたら良いのか…。もし肥育の業者に渡っていて、そこで運よく見つかってもかなりの額を積まないと譲ってもらえないだろう。いろいろな思いが頭の中を駆け巡っていた。
そんな折、フェイスブックのコメント欄に「お金があったら、今すぐにでも引き取りたい馬がいる」と書いた。この何気なく発した一言がフェイスブック上の友人の目に留まり、メッセージが届いた。友人も肥育の業者に渡った馬を引き取った経験があった。その経験からいろいろとアドバイスを頂き、実際にキリシマノホシの行方探しを手伝ってくれた。
あの一言をフェイスブックに書き込まなかったら、川越さんと私は1つの命を諦めていたかもしれない。「馬の命を守れ!」という本のタイトルが甦ってきた。何のためにこの本を読んだのか。再び手に取ってむさぼるように読んだ。どうなるかわからないけど、とにかく動いてみよう。引退後の馬の事情に詳しい関西の知人に、思い切って連絡を取った。この知人が、キリシマノホシ探しの大きな力になってくれたのだった。
(次回へつづく)