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震災から6年

  • 2017年03月11日(土) 12時00分


 この稿がアップされるのは、3月11日、土曜日の正午である。そのとき私は福島県南相馬市への移動中だと思う。午後2時15分から始まる、東日本大震災の追悼式に参列するためである。

 未曾有の大災害となった震災から6年。もう6年経ったと感じるか、まだ6年しか経っていないと感じるかは人それぞれだろう。福島、宮城、岩手の大洋側は今なお「被災地」と呼ばれている。震災のため亡くなった人は、警察庁緊急災害警備本部が昨年12月に発表した資料によると1万5893人、行方のわからない人は2556人もいるという。これだけの人がこの春七回忌を迎えるという事実に、ただただ愕然とするしかない。

 6年前の3月11日は金曜日だった。競馬サークルも、福島競馬場のスタンドの天井が広範囲にわたって崩落し、美浦トレセンの調教コースに地割れが生じるなど被災した。

 翌日と翌々日の中山、阪神、小倉での開催中止が震災当日に発表された。中山での開催は3月一杯中止となり、皐月賞は予定より1週遅れた4月24日、23年ぶりに東京で開催された。優勝したオルフェーヴルは、史上7頭目の三冠馬となった。

 ときは前後するが、震災から2週間ほど経った3月26日、私はドバイのメイダン競馬場にいた。ドバイワールドカップをヴィクトワールピサが勝ち、トランセンドが2着となった。世界最高賞金のレースで日本馬がワンツーフィニッシュをやってのけるという歴史的快挙を目の当たりにし、夜でも蒸し暑い砂漠の地で君が代を聴いたときは、自分はこの瞬間を一生忘れないだろうと思った。

 帰国し、成田空港から羽田空港へと向かうリムジンバスの車窓から、いつもならお台場のきらびやかな夜景が見えるのだが、このときは灯がほとんど見えなかった。

「こんなときに競馬をやって、本当にいいのだろうか」

 角居勝彦調教師も武豊騎手も、同じことを思ったという。

 多くのアスリートがチャリティーに参加したり、被災地を慰問するなどしたが、それ以上にすべきなのは、自分たちが頑張る姿を見せつづけることだ。競馬に限らず、人々に喜びと興奮を与えるスポーツに関わっている人はみなそう考え、自分たちの仕事に打ち込んだ。

 私もそうだった。誰かのために、などと大上段に構えず、自分のために被災地や被災馬のことを書きつづけることにした。自分のためにやるのだから、プロとして恥ずかしくないクオリティを保ちながら、いつまでもつづけることができる。

 あの年、関西のGI取材で大阪に行ったとき、夜の地下街の照明の眩しさに驚かされた。関東は秋になっても節電するのが当たり前になっており、中山競馬場のエスカレーターが止まっていて、ガラス張りのスタンドに西日が射し込んで真夏のような暑さになってもエアコンが入らなかった。そんな状況を、みな、当たり前のこととしてとらえていた。

 こうして思い出すのは「3.11」を意識したからで、普段は忘れて、日々の仕事に追われている。忘れたほうがいいこと、忘れないと辛すぎることもあるが、覚えていなければいけないことも、また多いはずだ。

 私は、こうして当たり前に競馬ができることのありがたみを、この稿を書き出すまで忘れていた。これは、忘れてはいけないことだと思う。

 相馬野馬追小高郷の騎馬武者で、友人の蒔田保夫さんに、「ゆめはっとで行われる追悼式に行くことにしました」とメールしたら、「お晩かだぁ。宿はなじょしんの?(中略)あどでどうすっか決まったら連絡くんちぇ」と返信が来た。さすが、本物の相馬弁の使い手だなあ、と感心しながら、お言葉に甘えて泊めさせてもらうことにした。『絆〜走れ奇跡の子馬〜』を読んでくれたようで、相馬弁の甘いところをチェックしてもらい、重版がかかったときに生かしたいと思う。

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作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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