島田家の家系図づくりを、大阪で弁護士をしている従兄弟から、私が引き継ぐことになった。
弁護士と作家。どちらも人に話を聞いて文書を大量に作成する仕事ではあるが、より自由に動けるのは後者だし、日本各地の親族に取材しなければならないので、私が適任だろう、ということになった。私の父のきょうだいで存命なのは、父と妹(私の叔母)だけだから、当然父も取材対象になる。父は、数日前の記憶はあやふやでも昔のことはよく覚えている。元気なうちに記録にとどめたい。
こう書くと、まるで大変な作業が控えているかのようだが、実は、かなりの部分まで私の大叔父が取材してまとめた資料が手元にある。1976年7月20日付で制作された「島田家とその一族」というもので、それと従兄弟が取り寄せた謄本などを突き合わせながら取材し、家系図と物語のつづきを書くことになる。
大叔父の調査によると、島田の一族は、明治時代、私の高祖父・島田嘉右衛門の代に石川県河北郡銚子村(現金沢市銚子町)から開拓移民として北海道に渡ったという。
島田嘉右衛門らは、明治30(1897)年4月下旬、10家族、60人ほどで富山県伏木港から貨物船に乗り込んだ。船底にすし詰めにされ、新潟、酒田、秋田などを経由し、5月初旬、積丹半島付け根の岩内港から北海道に上陸した。競馬史で言うと、岩手の小岩井農場がウオッカやスペシャルウィークなどにつらなる「小岩井の牝系」となる繁殖馬をイギリスから輸入する10年前のことだった。なお、岩内は、本稿で何度か紹介した養老牧場「ホーストラスト北海道」のあるところだ。
苦労して渡道したものの、北海道庁から斡旋された入植地はあまりに環境が悪かった。彼らは同じ土地に暮らすことを諦め、島田家は上川郡愛別村(現愛別町)に入植することになった。
愛別は旭川の北東25キロほどのところに位置し、周囲を大雪山連峰などの山々に囲まれ、石狩川などの水も豊かな美しい土地である。
家族で丸田小屋に雑魚寝しながら開拓に従事し、2〜3年後、ようやくまともな住居を構え、自給自足の生活ができるようになった。
一族を率いてきた島田嘉右衛門は、74歳になった年の初夏、愛別の祭で行われた草競馬を喜んで観戦し、夜は家族と団欒し、機嫌よく床に就いた。その翌朝、眠ったまま大往生を遂げていたという。大正4(1915)年6月27日のことだった。
新天地であたたかな安堵を得て、大好きな草競馬を見て世を去った――高祖父と、ほぼ半世紀後に生まれた私との、確かな血のつながりが感じられるエピソードである。
この「島田家とその一族」を読んで初めて知ったことはほかにもある。
まず、自分が島田家本家のブロックにいるということ。正確に言うと、祖父の代まで本家で、その長男の長男、つまり島田家の嫡男が前述した従兄弟の弁護士である。彼と私は同じ学部出身なので、島田は文系というイメージがあったのだが、父の叔父や従兄弟だけでも早大理工学部出身者が3人いるなど、理系も幅を利かせていることがわかった。
また、私の曾祖母が士族の田上家の出身で、その従兄弟に大阪の私立大学グループの創設メンバーだった人物がいる。島田家の何人もがその人物を頼って大阪に行き、さらに、田上家が移り住んだ上川郡下川村(現下川町)に島田家の本家も移動する。分家でも田上と養子縁組をするなど、島田家は田上家の強い影響を受けてきたようだ。
いずれ、田上家も取材しなければならないだろう。
さて、今年の秋競馬の開幕は、阪神競馬場で迎えた。
フィドゥーシアが、セントウルステークスで、ビリーヴとの母子制覇を達成する瞬間を見たかったからだ。しかし、残念ながら直線で失速し、9着に敗れた。外枠から速いスタートを切ってハナに立ち、気持ちよさそうに逃げた。直線入口までは母子制覇を期待できそうな走りだったが、結果的にややオーバーペースだったのか。それでも、自分の勝ちパターンに持ち込んでの結果だから、陣営も、私たちファンも、納得できるレースだったように思う。こちらの「血の物語」のつづきも楽しみにしている。
海の向こうでは、ノーザンファーム生まれのディープインパクト産駒アキヒロ(牡3歳、アンドレ・ファーブル厩舎)が、9月13日に仏サンクルー競馬場で行われた準重賞のテュレンヌ賞(芝2400m)を制し、今年の初勝利を挙げた。これは凱旋門賞のステップレースでもあったのだが、次走は凱旋門賞の2週後のG2・コンセイユドパリ賞(シャンティイ芝2400m、3歳以上)になるようだ。アキヒロは、去年も9月8日のG3を快勝しており、この季節はよく走る。日本調教馬の参戦以外の、来年の凱旋門賞の楽しみができた。
このまま活躍をつづけて、以前、スポーツ誌「Number」でボツになった「明宏がアキヒロを書く」という企画が復活してくれるとなお嬉しい。